⁂Blog、目に留めて頂き有難うございます⁂

ここから何が始めたいか自分でも分かりません。

ただただ嘆きと弱さだけの、ネガティヴBlogにしか至らない内容かもしれません。
が、勝手ながらの自分の生きてることの何かを綴りたく投稿していこうと思いました。


突然ではありますが、またまた勝手ながら今までについての綴りを開始します。


現在、34歳、2人の子を持つ母です。
育児を始めていきながら思い悩む日々は、誰にでも起こりうること。
その日々の中、最近強く感じる自分自身への違和感。

私は幼い頃、両親と母方の両親と私と2つ違いの妹の6人で住んでいました。父は世間でいうマスオさん。

父と一緒に過ごした日々はほとんど記憶になかった矢先、7歳(小学1年)のある日。(当時妹は5歳)
自宅で母方両親と、両親が深刻そうな顔で話しをしている姿をみて、私はここから出ていかなければと妹に声をかけ家の外に出ようとした。

その姿をみた母が私を呼び止めた。

話し合いをしている大人たちの中に行くと、離婚届け用紙が置かれ、ただただ泣く両親。

泣いてる母から出た言葉は「もうお父さんとは一緒に暮らすことはできないの。分かってね。ごめんね。」
泣いてる両親を見てるだけでも涙で溢れていたが、この言葉を聞いて余計に涙が溢れた。

そして、そのあとからのきおくはなかった。


母は、どんな思いでも子供の前で父のことを悪くは言わなかった。
私はまたいつか父と一緒に暮らせる日々を信じてやまなかった。

母は母なりに必死で、生活をしていくにはと考えて至った当時の答えはアムウェイだった。アムウェイ始めて、私たち娘は毎晩10種類以上のサプリメントを飲むように言われ、飲まなければ明日の分に追加しておくと、泣く泣く飲んでいた。

そんな日々を送りながら、小学3年になった私(妹は小学1年)。
風邪なのか怠いと感じる日々が続き、近くの小児科に通う日々が増えていた。小児科では『風邪』と診断されており、周りもそうなんだと思っていた。母は、具合が悪いふりをしてるの?と聞いてくることもあった。

症状改善見られず、怠さは増す日々。
そんな日々の中で、おかしいと感じていた祖母が幼少期に通っていた保育園の園長に相談し、がんセンターへの受診を勧められた。

がんセンターへいき検査をしたら、翌日に入院と。

私は、学校が休める!と、ただ軽い気持ちでいた。

入院しすぐに、骨髄穿刺。
その時は何が起きてるかわからず痛みさえも覚えてなく、これが終われば終わり?としか思っていなかった。

それはただの検査の一部。
そう気付いたのは、入院しはじめ、だんだん体力も落ち、元気になる薬と称してした点滴のあとの副作用。吐き気怠さ。(ここではまだ私にはきづいていなかった、抗がん剤治療をしていた)そして、周りの小児科病棟にいる方達を見て、私と同じだと思った。

気付いたら、無菌室に入り、面会制限までされ、髪の毛も抜け落ち、ムーンフェイスと化し、肌も荒れ、絶対感染しないようクリーンルームのカーテンを開ける制限もされた。

家族との面会は、ナースステーションからの電話で、ステーション越しから妹と祖父母の姿が見えた。

私が入院した病院は母同室化だったので、ずっと母は傍にいてくれた。

入院は3ヶ月間。
その後は外来での抗がん剤治療が開始された。