アイルトン・セナの死と共に日本のF1ブームも終焉を迎えました…。 | 有栖川まおの愛が止まらないR

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「有栖川まお」のガンダムで倉木麻衣な日々の出来事を綴ったブログです。

 今日から5月。

 そして今日は、日本でも絶大な人気を誇っていたF1ドライバーのアイルトン・セナが、イタリアのイモラ・サーキットにて行なわれた1994年サンマリノグランプリの決勝において、事故死という最期を迎えてから、丁度30年となります。

 実況を行なっていたフジテレビのアナウンサー三宅正治氏による「おおっと、セナが! セナが! セナが何と、ウォールにクラッシュ~!! またか! またか! またもクラッシュ、破片が飛び散っている~!! アイルトン・セナに何が起こったんだ!? 大波乱のサンマリノ!! アイルトン・セナにも、イモラは牙を剥きましたッ!!」との、その事故の瞬間を伝えた絶叫は、F1に対してさほど興味が無かった私にとっても、今でも強烈に印象に残っています。

 「またもクラッシュ」「アイルトン・セナにもイモラは牙を剥きました」…そう、このイモラのサンマリノGPは、セナの他にも、予選1日目にルーベンス・バリチェロがクラッシュして鼻骨を骨折したり、2日目にはローランド・ラッツェンバーガーが、フロントウィングの破損によりコントロールを失ってコンクリート壁に正面衝突して事故死したり、そればかりか、パーツが外れて観客が負傷したり、外れたタイヤがピットクルーに直撃して重傷を負わせたりと、呪われているとしか思えない3日間でした。セナも嫌な予感がしていたのか、バリチェロの事故の後、恋人のアドリアーナに「走りたくない」と電話をしていました。

 死因は、クラッシュの際にサスペンションの一部がヘルメットを貫通した事による頭蓋骨骨折でした。クラッシュ直後のヘリからの空撮映像では、セナの頭が一瞬動いていたので、生命に別状は無いのか、と思われましたが、それは、単に脳損傷による身体の痙攣でしかありませんでした。セナの呼吸を維持させる為に緊急気管切開を行なった脳神経外科医のシド・ワトキンスによれば、セナが最後にため息をついた時に「私は信心深い人間ではないが、その瞬間に彼の魂が旅立ったのだと感じた」との事です。その葬儀は、祖国ブラジルでは国葬として執り行なわれました。

 後に、セナのマシンのコクピットからは、畳まれたオーストリアの国旗が発見されました。それは、このレースの終了後、セナが前日に事故死したオーストリア出身のラッツェンバーガーに対し、敬意を表して掲げる筈だった物でした。しかし、その国旗は遂に掲げられる事無く、セナ自身もラッツェンバーガーの後を追う事になってしまったのです

 このレースで優勝したミハエル・シューマッハは、レース後の記者会見で「満足感もなく、ハッピーでもない」と語っていました。シューマッハはセナのクラッシュの直前まで、その後ろに付けていたのですから。後にシューマッハはセナの葬儀に出なかった事を責められましたが、それは何者かに「ブラジルに来たら殺す」との殺害予告を受けていた為でした。2000年にはモンツァのイタリアGPにて勝ち星が41勝とセナと並びましたが、その事についてレース後のインタビューで「今日の勝利はあなたにとって大きな意味を持つものですか」と聞かれ、「そうだね。この勝利は僕にとってすごく大きな意味を持つものなんだ。ごめん…」と語った後、突然泣き崩れました。後に同じ質問を受けた際には「そんなの言わなくたって分かるだろ。ここはイタリアだよ」と答えました。サーキットこそ違えど、セナの最期の地となったイタリアでの、セナと同じ勝ち星での優勝は、シューマッハにとって「非常に大きな意味」を持っていたのです。セナはシューマッハにとって良きライバルであり、憧れの存在だったのです…。

 そしてタイトルにも書いた通り、この「音速の貴公子」セナの事故死以来、日本におけるF1ブームは、急速に終息を迎える事になりました。セナの存在は、それ程までに大きかったのです。

 

 思えば、1990年代前半のF1ブームは凄まじい物がありましした。マクラーレンのスポンサーに週ジャンが名を連ねていたり、石橋貴明が『生ダラ』にてセナとカートレースを行なったり(この対決に勝利した石橋は、セナが鈴鹿で優勝した際のヘルメットを譲り受ける約束をしましたが、それを受け取ったのは、セナの死後の事でした…)、今は亡き昭和シェル石油のハイオクガソリン「フォーミュラシェル」のCMではセナやアラン・プロストが出まくってましたし(まだバブルの余韻が残ってた頃でした)、『ガンダムF91』の「F」も「フォーミュラ計画」の略ですし(デザインにもF1マシンのラインが採り入れられたそうです)、ボンボン版『Vガンダム』では、ザンスカール軍のMSパイロットチーム「サンダーインパルス」として、「セナ」「プロスト」「シューマッハ」の3人が登場しますし(ヲイヲイ…)、

センチネル』連載終了後のMG誌では、模型文化ライター氏が、その『センチネル』のファンコーナーの延長的な感じで、『テールエンダー』なるF1専門・情報の読者コーナーを設けていたりしました。戦車長殿は、以前からF1ファンだった事もあって興味深く読んでいたそうですが、F1に興味が無く(何よりも、マシンにタバコの広告がデカデカと書かれてるのがイヤでした)、尚且つ深刻な「センチネル・ロス」に陥っていた私にとっては、「ふーん…」でしかありませんでした。

 1993年11月号なんか、「史上最強!?のF1大特集'93。」と題して、ほぼ1冊丸ごとF1特集号にしていたりして、F1に興味が無い他の読者やモデラーからは、顰蹙を買いまくっていました。かつてあれ程高い人気を誇っていた『センチネル』だって、表紙になった事は何度かあったものの、MG誌の誌面を丸ごと占拠した事までは無かったってえのに…。

 当時編集長だった模型文化ライター氏は、もう完全にF1一辺倒といった感じで、『センチネル』、ひいては『ガンダム』の事なんか綺麗さっぱり忘れてしまったかのようでした。翌年に発行された明貴美加氏の『超音速のMS少女』のあとがきにおいても、「その頃の僕は悲しいことに、いわゆるアニメマニア(即死)と称されるようなジャンルに属する人間だったので」「過去からの反動も手伝いアニメーションやコミックといったカルチャーから一切足を洗ってしまった」などと、投げやりとしか思えない文章を書いていた程です。かつては『今月のMS少女♥』の仕掛人として、明貴氏をJKにデッチ上げてたりしたってえのに…。

 しかし、このセナの事故死によってF1熱が急激に冷めてしまったのか、現在では『センチネル』という過去の栄光を盾に、まるで昔の恋人とヨリを戻そうとするかのように『ガンダム』を始めとしたアニメ・コミック関連の仕事を再開している模型文化ライター氏ですが、そこには既に彼の席はありませんでした…