「日本のライト兄弟(一人ですが)」の悲劇。 | 有栖川まおの愛が止まらないR

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「有栖川まお」のガンダムで倉木麻衣な日々の出来事を綴ったブログです。

 今日は、本日より公開される、横浜の山下埠頭に展示されている「動くガンダムでも見に行こうかと思っていたのですが、仕事の方が年末進行疲れてる事ですし、また感染の方も心配なので(一昨日は遂に822人の大台に…)、家で大人しく休んでいる事にしました。

 

 そんなワケで、一昨日の「飛行機の日に続いての飛行機の話。今日12月19日は、日本陸軍の徳川好敏大尉が、代々木練兵場(現・代々木公園)において、アンリ・ファルマン式複葉機で日本初の公式動力飛行を行なった日でした。本当は、その5日前に、同じく代々木練兵場にて日野熊蔵大尉がグラーデ単葉機で飛行したのが初めてだったのですが、「没落した清水徳川家の人間に日本初の動力飛行の栄誉を与えたい」という意向から、日野大尉の飛行は無かった事にされてしまいました…。いずれにせよ、アンリ・ファルマン機はフランス製、グラーデ機はドイツ製と、両方とも海外製の機体という事もあって、あまり自慢できたものではありませんね…

 

 その一方、日本独自の「飛行器」を製作しようとしていた人物が、二宮忠八でした。彼は1889年11月頃、陸軍の野外演習の休憩中にカラスが羽ばたかずに滑空しているのを見て、その着想を得ました。この時点で、彼の着想は、ライト兄弟のそれに先駆けていたのでした。そして模型飛行器を製作して飛行実験に成功したのを受けて、日清戦争時に上官に「偵察に使えますよ」と実機の製作を上申したものの(実際、後の第一次世界大戦における飛行機の最初の用途は偵察でした)、長岡外史大佐(通称「リアル∀ガンダム」)からは「今は戦時中である」と、また大島義昌中将(安倍前首相の高祖父)からは「本当に空を飛んだら聞いてもよい」と言われ、あえなく却下されてしまいました…

 やむなく彼は退役して製薬会社に入社し、資金をコツコツと貯めながら独自に「飛行器」の製作に取り掛かったのですが、1908年になって、既に5年前にライト兄弟が初飛行に成功していた事を知った彼は、大いに嘆いて「飛行器」の枠組みをハンマーで破壊してしまいました。彼がライト兄弟の初飛行を知ったのがここまで遅れてしまったのは、この事実がアメリカ国内でもほとんど報道されず、日本にはなかなかこのニュースが伝わらなかった為だったので、「井の中の…」呼ばわりするのは酷という物でしょう。

 それから彼は、飛行器の製作から離れて仕事に打ち込むようになり、食塩メーカーのマルニを創業したり、航空事故で亡くなった人を弔う為に飛行神社を建てて、自らその神主になったりしました。後に長岡外史は彼の許を訪れて、自らの不明を謝罪する事になりました。あのヒゲで(笑)。