誕生日にライト兄弟の偉業とその後の苦難を思う。 | 有栖川まおの愛が止まらないR

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「有栖川まお」のガンダムで倉木麻衣な日々の出来事を綴ったブログです。

 本日、また一つ歳を重ねました。そして当ブログも、今回で250回目を迎えました。

 今日は、ライト兄弟が人類初の動力飛行に成功した日という事もあって「飛行機の日」でもあるのですが、彼らの功績が正式に認められるまでの道のりは、決して平坦な物ではありませんでした…。

 

 1903年12月17日に、ノースカロライナ州キティホーク近郊のキルデビルヒルズで「ライトフライヤーI」が初飛行を行なった際、見物人はたったの5人で、世間はこの記念すべき初飛行に対して懐疑的で、「機械が飛ぶ事は物理的に不可能である」などと言って反発しまくりました(詳しくは知りませんが、『ハイスクール・フリート』がそんな世界の設定だそうで…)。

 勿論、それ以前から動力飛行を試みていた者は枚挙に暇が無いのですが、その一人で、スミソニアン協会の会長でもあり、ライト兄弟も教えを請うていたサミュエル・ラングレー教授の設計した「エアロドローム」もまた、飛行に失敗したままに終わりました。しかし、ラングレーの後を継いでスミソニアン協会の会長に就いたチャールズ・ウォルコットは、協会の名誉の為に、ライト兄弟の功績を決して認めようとはせず、スミソニアン博物館にもライトフライヤーを展示しようとしませんでした。そしてライト兄弟を一方的にライバル視していた飛行家のグレン・カーチスも、ライト兄弟に勝訴しようとウォルコットと手を組んで、先述のエアロドロームを初飛行に成功した飛行機として認めてもらおうとしていたのですが、1914年にようやく初飛行に成功したそのエアロドロームは、カーチスによって実に35箇所もの改良が加えられていた代物だったのでした…。しかし、その飛行結果を受けたウォルコットによって「初飛行に成功したのはラングレーのエアロドロームである」との声明が発表され、スミソニアン博物館には元の姿に戻されたエアロドロームが「初飛行に成功した飛行機」として展示された為に、世間一般にもそう思い込む者が増えてしまいました。「ラングレー」の名前は、米海軍初の空母にまで使用された程です(『エヴァ』のクッソ生意気な女の名字の元ネタですな)。やはり、いつの時代も、真実という物は声のデカい奴の前にかき消されてしまう物なのですね…。ライト兄弟の兄ウィルバーは、その法廷闘争で力を使い果たしたかの如く、1912年に45歳の若さで亡くなりその4年後に、弟オーヴィルは飛行機製造から身を退く事になりました。

 そんな中、ライト兄弟の功績を高く評価していたのがロンドンの科学博物館で、ライトフライヤーは大西洋を渡ってイギリスで展示される事になり、当時イギリスに旅行に行ったアメリカ人は驚きました。「何でライトフライヤーがこんな所にあるんだ!?」と。スミソニアン協会もそうした声を無視できず、ウォルコットの後任のアボットは、遂にライト兄弟の功績を認めざるを得なくなり、1942年にオーヴィルとの和解に至りました。その際、オーヴィルが提示した条件はただ一つ、「歴史を正しく修正する事」でした。

 戦後、初飛行から丁度45年となる1948年の12月17日に、ライトフライヤーはようやくスミソニアン博物館に展示される事になったのですが、その式典の場にオーヴィルの姿はありませんでした。彼は既に、その年の1月30日に亡くなっていたのです…。

 

 近年になって、ライト兄弟より前の1901年8月14日に、グスターヴ・ホワイトヘッドが動力飛行に成功していたとの話が再浮上しています。しかし、スケッチはあるものの写真は存在していなかったりと、その証拠になる物は乏しく、公式にはやはりライト兄弟の飛行が人類初の動力飛行であるとされています。