~ 山下公園・赤い靴 ~
山下公園では、どうしても「赤い靴はいてた女の子」像を訪ねたい。
しかし、芝生広場周辺を何回も廻るのだが、判らない。
パネルに表示されているのだから、絶対にあるはず。
やっと見つけたのはいいけれど、左右のフェンスの
間に挟まれて、ちょこんと座っている。
山下公園の芝生、花壇は3月末まで工事中だった!
女の子は、左右を工事のフェンスで挟まれて身動き
とれず、窮屈そう。 それに、これでは、誰にも見つけ
て貰えない。
(横浜市HPより)
とてもとても可愛そうな「女の子」像だった。
そこで今回は、ブログ「写真紀行・旅おりおり」から
了承を頂き、2枚の写真をお借りしてきた。
「女の子」の姿や表情が、はっきりよくわかると思う。
海を見ている
『 赤い靴はいてた女の子 』像
「写真紀行・旅おりおり」”赤い靴”より
大きな目で、海を見る女の子
「写真紀行・旅おりおり」”赤い靴”より
台座の部分は、大丈夫。
歌と彫刻についての解説プレート
山本正道 作
1979年11月11日
童謡 赤い靴を愛する市民の会
「この曲は横浜港を舞台に作られ、1921年 →
(大正10年)に発表された童謡です。
女の子の像はこれを記念し、多くの人に
親しまれる彫刻となることを願って、ここに
置かれています。」
「 赤い靴 」
作詞: 野口雨情
作曲: 本居長世
♪ 赤い靴 はいてた 女の子
異人さんに連れられて 行っちゃった
♪ 横浜の はとばから 船に乗って
異人さんに連れられて 行っちゃった
~ ~ ~ ~ ~
~ ~ ~ ~ ~
「赤い靴をはいていた少女」のモデルとされる、岩崎きみちゃん。
宣教師夫妻の養女となって、アメリカに渡ったとされていたが、実際には病気のため
渡航はかなわず、麻布の鳥居坂教会孤児院で、9歳の幼い命を閉じたということである。
アメリカで宣教師夫妻に可愛がられて幸せな日々を送っている、と信じていたきみちゃんの
実母の話を、雨情さんが実際に聞いたものであるかどうか、、。また、きみちゃんが本当に
養女になったのかどうか、諸説あるためこれが正しいと断定は出来ないのだが、横浜港には
雨情さんの、詩のイメージそのままの少女の像があった。
少し首をかしげ、両手を組んで、はるかな海の向こうを見ているかのような眼差しである。
しっかりと、足の甲にベルトの掛かった靴を履いている。
この童謡を、舟木さんは映画「友を送る歌」の中で、
まるで抒情歌のように歌われている。
船で暮らす二谷英明さんの息子と港で出会った
舟木さんが、少年と ” 男と男の約束 ” を交わす場面
である。
児童合唱団や童謡歌手、クラシック歌手の 童謡でも
ない、舟木さんの「赤い靴」。
舟木さんは、野口雨情の童謡を、抒情歌のように歌う。
後年、舟木さんは「雨降りお月さん」や、「野口雨情もの
がたり」で野口雨情を演じ、「船頭小唄」をリリースされ
る。
この頃から、野口雨情さんに、何か感ずるところがおあ
りだったのかも知れない。
故郷のにおいがする、その感受性において、情の篤い人のみが即座に共鳴しあえる何かに
おいて、、。
「赤い靴はいてた女の子」像の周りは、もうすっかり花壇の手入れも終わったことだろう。
いつまでも、いつまでも厭かず海を見つめている少女が、その頃見ていた港の景色は・・・
こちらは、「赤い靴はいてた女の子」像からは、少し左手になる場所である。
(大桟橋近くのコンクリートに描かれていたパネル)
大桟橋の賑わい (同)
弓なりに伸びている防波堤が、その形から「象の鼻」と呼ばれ、海運の中心、荷捌きの場として
賑わった。 「象の鼻」防波堤の背後に「鉄桟橋」が建設されてからは、物揚場、船だまりとしての
役割を維持してきた。
現在は再整備されて、「象の鼻パーク」となっている。
当時、(雨情さんの詩の中で)女の子が見た景色に近いと思われる。 (同)
こんな港の賑わいを見ていたのではないだろうか。
山下公園近くの舗道には、横浜らしいこんなタイルが、はめ込まれていた。
「赤い靴」も、しっかりと みなと・よこはまのシンボルの一つに
なっているようである。
雨情さんの作詞そのままのイメージで、海を見つめる「赤い靴
はいてた女の子」の周りが、今はもう、春の花で溢れていますよう
に、、。