2000年10月、縁あって通信販社S社に入社し、マイライン
に関わった2年間は、
私にとって、騒乱の中に身を置いているような日々でした。
S社は「光通信」という通信販社のサラリーマンから独立したS氏(30代前半)と、
スナックのオーナー兼マスターのK氏(30代後半)が、ビジネス交流会で出会い、
「マイライン」という商材で一儲けしよう、ということで意気投合し、
S氏の知合で、広島市で電気店を経営していたA氏(50代半ば)に出資してもらって設立した会社です。
S氏が社長、K氏が専務で、A氏が会長でした。
私が入社した頃の拠点は、広島本社と大阪支社の2ヶ所で、
K専務が大阪支社を統括し、S会長が電気店のオーナーと兼任で広島本社を統括していました。
S社長は、広島・大阪を往復すると同時に、支社拡大のため、全国を飛び回っていました。
さて、マイラインは登録することで通信費の割引があり、2001年9月末までは登録費等一切無料だったので、
多くのお客様は、マイラインを、
「通信費を無償で削減するサービス」とほぼ同義語に受取っていました。
もちろん、できるだけ正確・丁寧に内容説明は、していましたが・・・
(マイラインの概要については、下記御参照ください
「マイライン」バブルがやって来た!=序章=
)
通信関連の営業は初心者でしたが、OA機器のセールスを10年、太陽光発電のセールスを1年経験して来た私にとって、NTTのマイラインは、かなり販売しやすい商品でした。
売上については、私の場合で1日平均20回線前後の契約がありました。
S社に支払われる1回線あたりのインセンティブは約8千円と聞いていたので、
月の稼働日を20日とすると、 20回線×20日×8,000円=320万円
当時、私の月給はほぼ固定給で20万円+αでした。
儲けの大半は、連日の宴会費に消えていたのか・・・
さて、2001年1月マイライン制度開始と同時に、私は2ヶ月間勤務した大阪支社から、
広島本社に営業責任者として転勤しました。
営業職としては、人生初の管理職ということもあり、かなり気合が入っていました。
赴任後は、広島市内を活動的にセールスしてまわり、広島本社の営業成績も順調に推移しました。
ところが、赴任後1ヶ月半ほど経った頃問題が発生しました。
赴任当初20名程の営業社員は、ほとんどが何らかのセールスの経験者だったのですが、
大規模な引抜きがあり、7割近い社員が退職してしまったのです。
この危機に対し、会社としては売上機会を逃してはならじと、
就職情報誌に採用掲載を掲載すると同時に、様々なつてを頼りに人材確保に努めました。
結果、フリーター・厚底ブーツのギャル・暴走族のリーダー・チーマー・ヤンママ・自称劇団員等々、
営業経験の無い10代後半から20代前半の社員が大半を占めることになりました。
若くて個性的な彼らは物怖じせずに飛込み営業し、即戦力として活躍したものです。
厚底ブーツのギャルちゃんなどは、企業規模関係なくほとんどキャバクラの乗りで、責任者にタメぐちで営業し
営業成績トップになったことも何度かありました。
反面、1・2日でクビになったり、辞めていったトンデモ社員も数名いましたが。
広島本社で、新入社員達の頑張りによって、引抜の危機をなんとか脱して軌道に乗りかけた頃、
大阪支社で大きな問題が発生しました。
代理店の社員が電話帳に掲載の電話番号を持主に無断で大量にマイライン登録するという不正があり、
大阪支社の社員が何百件というクレーム対応に追われる事態となったのです。
広島本社は、クレーム処理には直接関与しませんでしたが、
とにかく会社存続の危機なので、固唾を呑んで事態を見守っていました。
大阪支社では、K専務が陣頭指揮し、
2ヶ月近くかかりましたが、全てのクレームを処理することに成功しました。
クレーム処理収束後、大阪の社員の慰労の意味も込めて、広島本社に全国の社員が集結して、
「決起集会」という名の宴席が設けられました。
営業社員中心でしたが、出席人数は80名ほどだったと思います。
当日は、好成績で意気上がる広島本社や東京支社・名古屋支社と、
クレーム処理で疲弊し、自分達だけに処理を任せた、社長や幹部への不満が渦巻く大阪支社とが、
それぞれ別種の興奮状態の中にありました。
異様な盛り上がりのうちに、ともかくも無事?宴席は終了しましたが、
各自で分かれて開催した2次会では、各地で喧嘩が勃発したようです。
私は、不覚にも1次会の時点で酔いつぶれて眠ってしまい、
各喧嘩情報については、翌日に知ったのですが・・
幸い、警察沙汰になる喧嘩はありませんでしtが、
翌日、2人のチンピラがS社長になぐられて怪我をしたということで、会社に怒鳴り込んできました。
どのように処置したのかは、よく知りませんが2・3日続けて来社していたようです。
私より5歳程年下で30代前半だったS社長は、
100名近い社員を抱える経営者として大きなストレスを抱えていたとは思いますが・・・
その後も大小様々な事件がありましたが、S社としては売上順調で、営業拠点も8ヶ所に増えました。
広島本社でも週末には宴会で盛上がる日々がしばらく続きました。
ところが、2001年9月、S社最大の危機が突然訪れたのです。
To Be Continued・・・