アーチネット徒然草 -2ページ目

アーチネット徒然草

バブルで踊って夢のあと、なんだかんだと20年・・

この20年間で起こった様々な事象について、
その現場に様々な形で立会った者として、
記憶の許す限り、書き綴っていきます。
よろしく御願いいたします。

先日、縁日のクジ引きに”当たりクジ”を入れていなかったため、店主が詐欺容疑で逮捕された、と報道していました。

報道を視聴した限りでは、

◎クジに1~100の番号を振って、番号で当たり・ハズレを判定すると言う、見破られやすいシステム。

◎ヒートアップしたお客が、1万4千円も投資して期待した結果が得られず、激怒したこと。

◎激怒したお客に感化されたのか、警官が摘発に執念を燃やしたこと。

◎店番がアルバイトだったこと。

  (どれだけの裁量を持たされていたかは不明ですが)

等々の要因が重なっての出来事だったようです。


しかし根本的な要因は、店主が”クジ引き”という商売をなめていたことだと思います。


縁日やフリーマーケット(以下フリマ)のクジ引きは、一瞬で勝負が決まる最も単純なゲームであり、

所詮は、お客と店主の”だまし合い”です。


ここで言う”だまし合い”とは、

店主の側からすれば、狭い店舗・低予算の中で、

いかに、お客の足を止め・快く財布の紐を開けてもらい・楽しんでもらい・何度も来てもらうか・・・

を真剣に考え、工夫、実践することです。


以前私は、縁あってフリマで”クジ引き店”を常設するジイさんと関わっていました。


煮ても焼いても食えないジイさんでしたが、

地域性・客層・客筋等々を熟慮し、お客と真剣に向き合い工夫・実践し、

”くじ引き”1本で、本人・奥さん・手伝いの女性の3人の生活を支える姿は、凄味さえ感じました。


例えば、お客の大部分を占める、幼児や小学校低学年とその親向けに、

新旧のアニメや特撮ヒーロー・ヒロインの”お面”を、竹竿にさしてズラリと並べて足を止めさせたり、

景品についても、最新流行のモノや玩具を研究して、幼児向けの素朴な玩具と、少し年長の子供や大人向けに流行のモノをバランス良く配置していました。


若干”怪しげなビジュアル”のジイさんは裏にまわり、

おっとりした感じの奥さんと、シャキシャキした感じの手伝いの女性2人に店番をさせ、柔らかい雰囲気を演出したりもしていました。

また、幼児や、良く来る子供などには、当たり・ハズレに関係無く景品を1つ余計に渡したりもしていました。


クジについては、まったく当たりが出ない、ということは無かったと思いますが、

私の記憶の限りでは1等・特等が出たことはありませんでした。

それでも、お客は楽しんでいたようで、リピーターも多く、土日祝は行列が出来るほどでした。


To Be Continued・・・

先日、宮崎駿監督作品「風立ちぬ」を観てきました。


ラストシーン、残骸が累々と横たわる中、

「この10年、力を尽せたかね?」との問いかけに対し、

主人公は、

「はい、尽せました。後半はズタズタでしたが・・」

と、まっすぐに答えます。


滔々と流れる時間の中で、人の一生はほんの一瞬です。

しかも、時代や場所を選んで生まれてくることは出来ません。


そんな中、人が出来ることは、憧れを抱いて力を尽すことだけかも知れません。


憧れたことに、直接携わることは難しいかも知れないし、直接携われたとしても、

環境に抗えず、ズタズタになるかも知れません。


それでも、憧れを抱いて過ごすキラキラした時間は、誰にも・何にも侵すことは出来ません。

そして、そんなキラキラした時間が、新しい時代を・時代の流れを創って行くのでしょう。

マイライン制度がスタートした2001年、通信を取巻く状況は大きく変容しようとしていました。

20世紀末に急速に普及したインターネットと携帯電話は、様々な社会現象を巻き起こしながら、固定電話回線に変わる通信インフラとしての地位を確立しつつありました。


そんな時代背景の中、私達が目先のマイライン契約をひたすら追いかけている最中に、

NTT本体は、100万人規模のリストラを断行していました。


当時、固定電話は企業でも個人宅でも、辛うじて通信インフラの主役の座を占めており、

リストラのニュースに若干の違和感も感じましたが、

通信業界の端っこに身を置くモノとして、関心を持って見守っていました。

リストラについて、お客様から尋ねられた際のセールストークを考えたりもしました。


ただ、セールスの現場で”NTTのリストラ”が話題になることは無く、

日々の契約に追われる中、

「リストラとマイラインは直接的な関係はなく、マイライン営業はまだまだ続く」

と言う、楽観的な思いを抱いていました。


しかし、電電公社として通信事業を独占していた時代は遠く過ぎ、

通信大変革の時代を見越してリストラを断行しているNTTは、そんなに甘くはありませんでした。


そして、ついにその日は来ました・・

「2001年9月末日をもって、

マイラインに関するNTTグループとS社との代理店契約は終了する」

この情報を、最初に誰から・どのような状況で聞いたのか、いつ頃だったか、

不思議と正確には記憶に残っていないのですが、とにかく突然のことでした。


この情報に触れた時、私はもちろん驚きましたが、

「ついに来たか」という思いもありました。


S社とNTTとの契約内容がどのようなモノだったか、詳しくは知りませんが、

9月末日までの契約で、双方からの申し立てが無ければ自動更新と言うような形だったのでしょうか。

幹部達にとっても、早くから予期していた事態では無かったようです。

2001年9月末日は、マイラインが無料で登録できる最終日で、10月1日から840円(税込)の手数料がかかることが決まっていました。

あとから得た情報によると、多くの代理店が9月末日をもってマイラインに関するNTTグループとの代理店契約が終了となったと言うことです。


NTTの意図については、推察するしかありませんが、

「代理店に好き放題やらせてでも、9ヶ月間にNTTマイラインのシェアを拡大・確保し、

登録手数料が発生する前に、代理店はあらかた切ってしまったらいいんじゃないの・・」

といった、ところでしょうか?推察ですが・・・


それはともかく、マイライン制度は現在も続いていますが、

多くの代理店が享受し・浮かれ踊った、

「マイラインバブル」は、2001年9月末日をもって、ほぼ終焉したと思います。


さて、今から思えば、「マイラインで一儲けしよう」という思いで設立したS社であれば、

突然の事態とは言え、NTTとのマイライン契約が終了した時点で一旦立ち止まり、事業を整理するべきだったと思います。


「NTTのマイライン」と言う、

信用が高く、超契約しやすく、インセンティブが高額で、売上金回収が確実・・

何拍子も揃った稀に見るバブリーな商材に巡り合ったからこそ、

売上機会を逃がさないために、必死で人材を確保し・セールスに投入したはずなのに、


我々セールスマンの実力を過信したのか、2匹目のどじょうが簡単に見つかると持ったのか、

S社は100名近くに膨れ上がった社員を抱えたまま、新たな商材を開拓することに力を注ぎました。

そして、私自身もそんな状況の中に身を置き続けました。


To Be Continued・・・

2000年10月、縁あって通信販社S社に入社し、マイライン に関わった2年間は、

私にとって、騒乱の中に身を置いているような日々でした。


S社は「光通信」という通信販社のサラリーマンから独立したS氏(30代前半)と、

スナックのオーナー兼マスターのK氏(30代後半)が、ビジネス交流会で出会い、

「マイライン」という商材で一儲けしよう、ということで意気投合し、

S氏の知合で、広島市で電気店を経営していたA氏(50代半ば)に出資してもらって設立した会社です。

S氏が社長、K氏が専務で、A氏が会長でした。


私が入社した頃の拠点は、広島本社と大阪支社の2ヶ所で、

K専務が大阪支社を統括し、S会長が電気店のオーナーと兼任で広島本社を統括していました。

S社長は、広島・大阪を往復すると同時に、支社拡大のため、全国を飛び回っていました。


さて、マイラインは登録することで通信費の割引があり、2001年9月末までは登録費等一切無料だったので、

多くのお客様は、マイラインを、

「通信費を無償で削減するサービス」とほぼ同義語に受取っていました。

もちろん、できるだけ正確・丁寧に内容説明は、していましたが・・・

     (マイラインの概要については、下記御参照ください

      「マイライン」バブルがやって来た!=序章=


通信関連の営業は初心者でしたが、OA機器のセールスを10年、太陽光発電のセールスを1年経験して来た私にとって、NTTのマイラインは、かなり販売しやすい商品でした。


売上については、私の場合で1日平均20回線前後の契約がありました。

S社に支払われる1回線あたりのインセンティブは約8千円と聞いていたので、

月の稼働日を20日とすると、 20回線×20日×8,000円=320万円

当時、私の月給はほぼ固定給で20万円+αでした。

儲けの大半は、連日の宴会費に消えていたのか・・・


さて、2001年1月マイライン制度開始と同時に、私は2ヶ月間勤務した大阪支社から、

広島本社に営業責任者として転勤しました。


営業職としては、人生初の管理職ということもあり、かなり気合が入っていました。

赴任後は、広島市内を活動的にセールスしてまわり、広島本社の営業成績も順調に推移しました。


ところが、赴任後1ヶ月半ほど経った頃問題が発生しました。

赴任当初20名程の営業社員は、ほとんどが何らかのセールスの経験者だったのですが、

大規模な引抜きがあり、7割近い社員が退職してしまったのです。


この危機に対し、会社としては売上機会を逃してはならじと、

就職情報誌に採用掲載を掲載すると同時に、様々なつてを頼りに人材確保に努めました。


結果、フリーター・厚底ブーツのギャル・暴走族のリーダー・チーマー・ヤンママ・自称劇団員等々、

営業経験の無い10代後半から20代前半の社員が大半を占めることになりました。


若くて個性的な彼らは物怖じせずに飛込み営業し、即戦力として活躍したものです。

厚底ブーツのギャルちゃんなどは、企業規模関係なくほとんどキャバクラの乗りで、責任者にタメぐちで営業し

営業成績トップになったことも何度かありました。

反面、1・2日でクビになったり、辞めていったトンデモ社員も数名いましたが。


広島本社で、新入社員達の頑張りによって、引抜の危機をなんとか脱して軌道に乗りかけた頃、

大阪支社で大きな問題が発生しました。

代理店の社員が電話帳に掲載の電話番号を持主に無断で大量にマイライン登録するという不正があり、

大阪支社の社員が何百件というクレーム対応に追われる事態となったのです。


広島本社は、クレーム処理には直接関与しませんでしたが、

とにかく会社存続の危機なので、固唾を呑んで事態を見守っていました。

大阪支社では、K専務が陣頭指揮し、

2ヶ月近くかかりましたが、全てのクレームを処理することに成功しました。


クレーム処理収束後、大阪の社員の慰労の意味も込めて、広島本社に全国の社員が集結して、

「決起集会」という名の宴席が設けられました。

営業社員中心でしたが、出席人数は80名ほどだったと思います。


当日は、好成績で意気上がる広島本社や東京支社・名古屋支社と、

クレーム処理で疲弊し、自分達だけに処理を任せた、社長や幹部への不満が渦巻く大阪支社とが、

それぞれ別種の興奮状態の中にありました。


異様な盛り上がりのうちに、ともかくも無事?宴席は終了しましたが、
各自で分かれて開催した2次会では、各地で喧嘩が勃発したようです。

私は、不覚にも1次会の時点で酔いつぶれて眠ってしまい、
各喧嘩情報については、翌日に知ったのですが・・


幸い、警察沙汰になる喧嘩はありませんでしtが、

翌日、2人のチンピラがS社長になぐられて怪我をしたということで、会社に怒鳴り込んできました。

どのように処置したのかは、よく知りませんが2・3日続けて来社していたようです。


私より5歳程年下で30代前半だったS社長は、

100名近い社員を抱える経営者として大きなストレスを抱えていたとは思いますが・・・


その後も大小様々な事件がありましたが、S社としては売上順調で、営業拠点も8ヶ所に増えました。

広島本社でも週末には宴会で盛上がる日々がしばらく続きました。

ところが、2001年9月、S社最大の危機が突然訪れたのです。


To Be Continued・・・

先日「奇跡のリンゴ 」と言う映画を観てきました。
テレビ・ラジオ等でさかんに宣伝していますが、
長年の苦闘の末に無農薬リンゴの栽培に成功した木村秋則氏の実話をもとに創られた映画です。 

映画の中で語られていましたが、リンゴはかなりデリケートな農作物で、
日本にリンゴが入って以降、全国各地で栽培が試みられましたが、その難しさに音をあげ、青森県以外の地では栽培を断念したそうです。
その青森県でも、先人達は害虫や病気に悩まされ続け、苦闘の末に農薬栽培に辿り着いたと言うことです。

苦労の末に先人達が辿り着いた農薬栽培は、リンゴ農家にとって、いつしか”当り前”のモノになっていたのでしょう。

”当り前”と言えば、映画の中では語られていませんが、JA・卸売市場・スーパーマーケットなどが長い年月かけて形作っていった農作物の流通網と、それに伴う農作物の規格化もまた、多くの人が”当り前”と思い込んでしまっているものの1つかも知れません。

40年程前、私の子供時代には瀬戸内海に浮かぶ因島と言う島でのことですが、八百屋では”く”の字に曲がったきゅうりや・色や大きさがバラバラのトマトなどが”当り前”に売られていました。
良し悪しはともかく、大阪市や吹田市のスーパーや八百屋で、そのような野菜を見つけるのは、現在では至難の業でしょう。

昨日、日本テレビ系の報道番組「NEWS ZERO」に木村氏が出演していました。
「TPPに参加した場合、日本の農業は対応していける思いますか。」
という質問に対し、木村氏は、
「色・形だけをキレイに整えることばかりに熱心な農業では心もとない。
それぞれの農家が、オンリーワンの工夫をしていかなければならないでしょう。」
という意味のことを語っていました。

淡々と語っていましたが、誰もが”当り前”と思い、大きな変革など考えなかったことに大きな疑問符を投げかけ、道を切り開いてきた人の言葉には、重さと爽やかさを同時に感じました。

さて、映画についてですが、
私にとっては、観終わった後、ジンワリといろいろな思いが込み上げて来る映画でした。
映画の後半部分、
苦悩の末、山中に死に場所を求めて彷徨っていた木村氏が、野生のクルミの木に出会うシーンは、
「生きろ、こんな所でクタバルなっ。
お前には、まだやるべきことが残っている。」
と言う、自然からの叱咤激励のように感じました。
フリーマーケットへの出品がきっかけで、1997年秋頃から豊中市の庄内本通商店街(以下庄内)を拠点に衣料・雑貨の移動販売をはじめました。
その後、庄内の地を離れ新たな販売場所を探すことになり、大阪市内東淀川のショッピングモール”エバーレ”に視察に行きました。

エバーレで調理器具を販売していたMさんの紹介で、エバーレ内の催事を管理しているKさんに会うことになりました、

エバーレ内の事務所でお会いしたKさんは、40代中頃の男性で、薄い色のサングラスをかけ、ややコワモテな雰囲気でしたが、若々しい服装をしていました。
当時新婚ホヤホヤと言うことで、奥さんが事務所に来ていたと思います。
本業は興業関係で、吉本興業関連の仕事も多いと言うことでした。

Kさんにエバーレ内での出店を御願いしたところ、快諾を得ました。
早速、出店に関する事務的な説明を伺い、その後Kさんから問われるままに移動店舗を始めたきっかけなどを語りました。

会話が一段落したところで、Kさんから、
「1週間後、神戸市灘区にパニエと言うショッピングモールがオープンするが、
テナントの出店が遅れていて、空き店舗がある。
テナントが入るまで自由に使用できるので、出店してみないか。」
との、提案がありました。
賃料は固定ではなく、売上金額の10%と言うことでした。

手持ちの商品が不足だと告げると、百円均一の業者を紹介するし、Kさんの在庫品を使ってもいいとの返事。
どちらの商品も、委託販売で良いとのことでした。

「とりあえず現地を確認した上で、判断させてほしい。」と返答し、
後日Kさんの案内で、パニエに視察に行きました。

パニエはJR六甲道駅から徒歩5分くらいで、1995年の阪神大震災以前は商店街だったそうです。
当時、震災から2年半以上経過していましたが、付近はまだ震災の爪痕が生々しく残っていて復旧工事も行われていました。

パニエに初めて入店した際「神戸らしいおしゃれな造りだなあ」と感じました。
出店を打診された1階部分は、東西か南北の壁面に沿って各5軒前後の店舗が設営されており、1店舗の面積は5坪前後だったと思います。

中央部分は広いフリースペースになっていて、移動店舗が2軒ほど出店していました。
店舗は鮮魚店・持帰り寿司店・漬物店など3・4軒が出店していたと思います。
空き店舗が多く、オープン直前という雰囲気ではありませんでした。

以前、神戸市内の春日野道商店街と二宮商店街で各2日程ですが移動店舗を出店したことがあります。
どちらも震災の爪痕は残っていましたが、震災以前と変わらぬ商店街の姿を保っているように見えました。
震災からは2年半経過していましたが、元のままの商店街が残っていると言うことが、付近の人々に安心感を与えていることは感じられました。

パニエの地に以前あった商店街が、どの程度の規模でどの程度賑わっていたのか、そして震災の被害がどの程度のモノだったのか、もはや目にすることは出来ません。
ただ、この地に新たに登場したショッピングモール”パニエ”が、付近の人々にとって復旧・復興に向かう1つの灯であることは想像できました。

不安もあるし、テナントが入るまでの短期間ではありましたが、
「復興の息吹を感じるこの場所で出店してみよう」と、意を固めました。

To Be Continued・・・
フリーマーケットへの出品がきっかけで、1997年秋頃から豊中市の庄内本通商店街(以下庄内)を拠点に衣料・雑貨の移動販売をはじめました。
その後、移動販売に誘ったくじ引きのジイさんと物別れし、庄内の地を離れることになりました。

ジイさんと訣別し庄内を離れることになり、新しい販売場所を探していた私は、何度か共同で出店したことのあるSさんに相談しました。
Sさんは、60歳前後の男性で、主に中国製の陶器や雑貨を扱っていました。
温和で穏やかに話をする人でした。

情報豊富なSさんは、
「大阪市東淀川区にエバーレと言うショッピングモールがあり、催事は貸店舗では無く、フリーマーケット形式での出店になる。
スーパーマーケットも入ってるし、子供連れのお客が多いので、今仕入ている玩具類が売れるかも知れない。賃料も安いので行ってみたら。」
と教えてくれました。

当時、100円ショップは既に登場していましたが、今ほど普及しておらず店舗数も少なく、商品も日用品・調理器具・文具が中心で玩具類はほとんどありませんでした。
なので、庄内でも松屋町で仕入た玩具は、仕入値の倍額前後の値付をしてもけっこう売れていました。毎日買ってくれるお客さんもいました。

さて、エバーレは郊外型ショッピングモールの走りのようなもので、ス-パーマーケットと20店舗程の専門店が入っていました。近所にマンション・アパートは多いのですが、駅からはけっこう離れていて、その分駐車場が充実していまいた。
車で来店して、てまとめ買いして行く人も多かったようです。

エバーレは自宅から近いこともあり、とりあえず視察に行ってみることにしました。
移動店舗が数多く出店していると思っていたのですが、1店舗だけ出店していました。

出店者はMさんと言う50代中頃の男性で、調理器具を販売していました。
180cm前後の長身で、後に聞いた話では、学生時代演劇をしていて、俳優を目指していたが、生活のために移動販売を始て今まで続いているとのことでした。

とりあえず情報収集と言うことで、Mさんに尋ねてみると、
エバーレでは、催事の時期が決まっていて、次回開催は5日ほど先とのことで、
Mさんは、特別に常設のような形で出店を許されていると言うことでした。

仕方ないので5日後の出店を検討しようと思っていると、Mさんから、
「良ければ、私の持スペース内で余っている部分を無料で貸すので、出店してみたら」
との提案がありました。
Mさんからすれば「1人でも増えればちょっとは賑やかになって、集客につながるかも知れないし、店番にも使えるだろう。」くらいの気持ちだったのでしょう。
事務机1台分程度のスペースでしたが、試しに出店してみるのには丁度良いと思い、御願いすることにしました。

早速Mさんから、催事を管理しているKさんを紹介してもらいました。
Kさんは40代中頃の男性で、興業関係が本業で、吉本興業関連の仕事も多いとのことでした。
このKさんとの出会いが、新たな展開につながることになるのでした。

To Be Continued・・・
フリーマーケットへの出品がきっかけで、1997年秋頃から豊中市の庄内本通商店街(以下庄内)を拠点に衣料・雑貨の移動販売をはじめました。

庄内では、スタート時はけっこう順調に売上ていましたが、日が経つにつれて売上は落ちて行きました。
思いがけず豊富で多種類の衣料が安価に手に入ったおかげで、うまくスタートできただけで、同様の条件で継続的な仕入れが出来るわけでは無かったので、売上が落ちるのは目に見えていました。

ここで踏みとどまるには、
いったん立ち止まって、地域性・お客層・季節等々をじっくり観察し、周囲の誰彼かまわずアドバイスを求めた上で商品に真摯に向き合い、新しい仕入先の開拓に力を注ぐべきだったと思います。

しかし、売上不振に焦った私は、松屋町の玩具問屋から玩具・雑貨を仕入たり、移動販売仲間から在庫品を貸りたりして、とりあえず商品の補充に力を注ぎました。
結局、独断でバタバタと商品を仕入たため、統一感が無くなり、何の店だかわからない状態になってしまいました。

売上が下がっても日貸店舗の賃料は日々出て行くわけで、資金も徐々に減って行きました。

そんな中で、商品情報の提供者で一緒に店番もしていたW氏も去って行きました。
いつまでも一緒にいても、共倒れになるわけで、W氏の選択は彼にとっても私にとってもベターなモノだったと思います。

W氏が去ったあと、
私の頭の中は日々の工夫や反省よりも、くじ引きのジイさんへの不満で満たされて行きました。
ジイさんはスタート時から販売場所を探したり、備品・什器の購入・商品の展示方法等々いろいろアドバイスをくれていました。

ただ、うまく行かない状況の中で、私は自身の行動を顧みるより、誰かに責任転嫁することばかりに目を向けていました。
ジイさんの行為についても、
「口は挟むが金は出さない」おせっかいなモノに感じるようになっていました。

また、仕入商品の大半をジイさんが借りていた庄内の倉庫に預けていたのですが、ジイさんが勝手にに持出してフリーマーケットに出品していることを伝え聞き、イラだちを募らせていました。

そんなある日、倉庫行ったところ、商品がほとんど無くなっていました。
ジイさんが密かに商品を別の場所に移しているという噂を聞いていたので、激しくジイさんを問い詰めると、反論するでもなく、のらりくらりと躱してきました。
私は、そんなジイさんの態度に感情を抑えきれなくなり、不満や不信の思いをジイさんに激しくぶつけ、その場で訣別を告げました。

商品の事はともかく、ジイさんからすれば、私を移動販売の世界に誘い入れたことに責任を感じて、早く1人立ちさせたいと思ってあれこれ世話を焼いていたのでしょう。

スーパーボールすくいの時期も含めて約半年間、いろいろ教えてもらいました。
「自分から人との縁を切ってはいけない。」と、教えられたこともありました。
結局教えは守れず、ジイさんとの縁を切ってしまったのですが。
この日以来、ジイさんとは会っていません。

全ては、オーナーでありながらジイさんに依存していた私の覚悟の無さと甘さが招いたことでした。
今となっては、ほろ苦い思い出です。

さて、ジイさんと訣別した私は、凝りもせずに新しい販売場所を求めて、庄内の地を離れました。

To Be Continued・・・
フリーマーケットへの出品がきっかけで、1997年秋頃から豊中市の庄内本通商店街(以下庄内)を拠点に衣料・雑貨の移動販売をはじめました。

さて、日貸店舗でお客が商品を購入する決め手は何でしょうか。
商品の差別化が明確なら決め易いでしょうし、日用品なら値段が決め手になるでしょう。
店員の接客につられて、つい買ってしまうということもあると思います。

いずれにしても、まずは店内に足を踏み入れてもらわないと始まりません。

庄内で比較的広い店舗を借りた際、Bさんと組んで半分づつ使用したことがあります。
Bさんは40代前半の男性で、大阪府枚方市で衣料・雑貨店を営んでいました。

Bさんは、「日貸店舗に出品する際には、あらかじめ出品商品を決めず、商店街の雰囲気・客層等を観て商品をを変えていきます。同じ店舗でも日によって商品を変えることもあります。
そして、開店後は店先を通るお客に念を送って呼込むようにしています。」
と、語っていました。

「念を送る」と言うと、オカルティックにも感じますが、
商品の選定・配置・自身の服装・身だしなみなど、全ての神経を集中させ、研ぎ澄ました気合で集客する、という思いだったのかも知れません。

私もBさんも、大きな声を出して呼込みをするタイプではありませんでしたが、Bさんがじっと店先を観ていると、まるで眼力に引寄せられるかのようにお客が入店する場面を何度も目撃しました。

移動販売でも、何度も同じ場所で開店すれば常連さんも出来てくるものですが、
Bさんの言葉や態度からは、
「店とお客は、常に一期一会の関係」と言う思いが、ひしひしと伝わってきました。

さて、私自身は販売スタート時こそ、商品量・種類が豊富で、かなり安価に値段設定していたこともあって、けっこう順調にに売上げていたのですが、
日が経つにつれて、良い商品は売れて減っていくわけで、店舗家賃を払った上で私自身と商品情報を提供してもらったW氏2人分の日当を稼ぐのは、次第に苦しくなってきました。

今更ですが商品知識・経験もないままに衣料品を安価で仕入れてスタートしたこともあり、新たな仕入先を開拓できず、
松屋町の玩具問屋で玩具・雑貨等を仕入れて来るのですが、何を売りたいいんだかわからない店舗になって行きました。

To Be Continued・・・
フリーマーケットへの出品がきっかけで、1997年秋頃から衣料・雑貨の移動販売をはじめました。

倒産品の衣料を仕入れ、移動販売をはじめるにあったって、まずは商品の仕分けからでした。
プラスチック製の整理ケースを買込み、種類ごとに仕分けしていきました。
30箱分のダンボールからは、シルクのドレスなど思わぬ値打商品も出てきました。

仕分けが一段落すると、次は什器・備品の準備です。
値札・レジ袋・POP用品などと同時にベニヤ板も購入しました。

たいがいの日貸店舗では、無料で陳列ワゴンを貸してもらえますが、それだけでは足りない場合なそにベニヤ板を使って陳列台を作成します。
切込みを入れた2枚のベニヤ板を噛み合わせて×の字型の足を作り、その上にベニヤ板を乗せて布をかければ、陳列台の出来あがりです。

また、ハンガーラックは近所の商店街付近に捨ててあったものを拾ってきました。

什器・備品も揃い、いよいよ開店です。
日貸店舗では店舗の広さや商品の量に応じて、単独で使用する場合と何人かで分け合って使う場合とがあります。
使用料は、大抵の場合使用面積に応じて振り分けていました。

拠点としていた庄内本通商店街では日貸店舗が数ヶ所あり、広さもいろいろでしたが、
最初に使用した店舗は比較的狭いモノだったので、単独で使用しました。

什器・備品・商品の搬入、配置等々開店の準備には、4・5時間はかかります。
前の出店者が引き上げてから準備にかかるとが多く、夜からになるので、終了はたいてい深夜になりました。
庄内の場合は自宅から近かったので、準備終了後いったん帰宅していましたが、神戸などで出店の際は、店舗に泊まりがけと言うことも良くありました。

開店当日は、朝1番で近所の銀行に行き、両替して釣銭を用意します。
その後、シャッターを開けて、陳列台・ハンガーラックを店頭に出し、商品を展示します。
準備完了して、朝10時頃開店してお客を待ちます。

To Be Continued・・・