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『うみべの女の子』— 浅野いにおが描く虚無感、身体と視線の関係

I. 序論:難しい実写化への挑戦 — なぜあの時、浅野いにおのこの作品だったのか

原作者・浅野いにおは、単なる漫画家というだけでなく、現代日本の「時代の空気」を切り取る特別なアーティストである 。『ソラニン』や『おやすみプンプン』といった代表作  を通じて彼が一貫して描いてきたのは、都会で暮らす人々の息苦しさ、大きくなりすぎた自意識、そして決定的なコミュニケーションのすれ違いであった。  

2010年の『ソラニン』実写化から11年が経ち 、再び浅野作品が映画になった。しかし、2021年に選ばれた『うみべの女の子』は、彼の作品群の中でも「最も実写化が難しい」とされてきた作品である。なぜなら、本作が「思春期」「恋」、そして何よりも「性」という非常にデリケートなテーマ  に対し、甘い恋愛や感動といった要素を一切排除し、冷たい視点で切り込んだ作品だからである。ファンの間で人気が高い  一方で、その過激さから実写化は不可能とさえ言われ、SNS上では「期待と不安」が入り混じった反応が見られた 。  

監督・脚本を務めたウエダアツシ  は、なぜ10年以上も前のこの作品を、2021年という時代に持ち出す必要があったのであろうか。このレポートは、その理由を探ることを目的とする。本作は、単なる懐かしい青春映画ではない。思春期特有の「性的な衝動」というレンズを通して、現代社会を生きる私たち自身の根本的な孤独や分かり合えなさを、鋭くえぐり出す映像作品である。  

II. キャスティングの勝利:「本当にそこにいる」という説得力

本作が成功した理由の多くは、見事なキャスティングにあると言っても過言ではない。特に主演の二人、石川瑠華と青木柚が「原作のイメージに完璧に合っている」、「今後に大いなる期待を持てる」 と評価されたことは、単に見た目が似ているという以上に、作品のリアリティそのものを支える支柱となっている。  

石川瑠華(佐藤小梅)論:相反する「少女」の姿

主人公・小梅を演じた石川瑠華  は、原作者の浅野いにお自身も審査に参加したオーディションで選ばれた 。彼女の演技の核心は、「清純そうな雰囲気」と、憧れの先輩に振られた腹いせに「気分転換」として初体験を済ませる  というドライな行動との間にある、強烈な「ギャップ」にある。  

その姿は、時に「絶妙にイモっぽい感じ」 さえ漂わせる。しかし、石川は「思春期特有の不安定な心の内を辛そうな表情から体現」しており 、撮影当時の実年齢(20代前半 )を感じさせない「中学生そのもの」の危うさを持っていた。この、相反する要素が同居する存在感こそが、小梅という複雑なキャラクターを観客に納得させるアンビバレントな魅力となっている。  

青木柚(磯辺恵介)論:「闇」に染まっていく変化

対する磯辺恵介役の青木柚  もまた、「精神的な幼さ」と「独善的で自分勝手な言動」 という、思春期のマイナス面を見事に演じきってみせた。当初は小梅に一途な好意を寄せる内気な同級生  であった彼が、小梅との歪んだ関係  と、兄の死という心の傷  によって少しずつ変わっていく。  

この過程は「闇堕ち」 とも表現できる。小梅に対して内面の暗い部分を見せ、やがて暴力沙汰に至る  までの繊細な心の変化を、青木柚は抑えた演技で完璧に表現している。 

演技が支える「R15」のバランス感覚

本作はR15指定作品である。その中心にあるのは、原作が描いた「中学生同士の性描写」という衝撃的な要素である 。この題材は、一歩間違えれば非常に扇情的、あるいは搾取的なものとして受け取られかねない危険性を持っていた 。  

しかし、本作がその危ういラインを踏み越えずに済んだ最大の理由は、まさしく主演二人の演技にある 。彼らの演技が「中学生そのもの」であり 、それはもちろん性的なシーンでも同様であった。重要なのは、彼らの演技が最初から最後まで「精神的な幼さ」を失わなかった点である。  

つまり、本作における性描写は、二人が大人になる過程を描くためのものではなく、彼らの**心の幼さや焦りを描くための「道具」**として、痛々しく機能している 。石川瑠華と青木柚の卓越した演技こそが、この非常に危ういバランスを「ドラマ」として成立させた、作品の重要な支えであった。  

III. R15の境界線上で描かれる「性」:道具のような身体、救いのような身体

物語は、意図的に「青春映画」のお決まりのパターンを壊していく。二人の関係は、恋愛感情からではなく、小梅が憧れの三崎先輩(倉悠貴 )に「手酷いフラれ方をして自棄になり」、磯辺を「誘って衝動的に初体験を済ませる」 ことから始まる。その動機は「ただの気分転換」  であり、恋愛感情はそこにはない。  

小梅の言葉:「ごちゃごちゃ言わないから好き」

作中序盤での小梅の台詞、「あいつの下半身はごちゃごちゃ言わないから好き」は、本作の核となるテーマをはっきりと示している。これは、親や教師といった「言葉」で押さえつけてくる周囲の大人たち  からの逃避に他ならない。小梅にとって、言葉でのコミュニケーションがうまく成り立たないこの息苦しい世界  において、磯辺との身体の関係は、唯一の「言葉がいらない」逃げ場所として機能する。  

満たされない心の繰り返し:「してもしても何か足りない」

しかし、その逃げ場所が二人を救うことはない。 性的シーンにて言及されるもう一つの重要な台詞、「してもしても何か足りない気がする」が示す通り、身体の関係を繰り返すこと  は、心の穴を埋めるどころか、その「満たされない感情」  の形をよりはっきりとさせてしまう。彼らは「ただの友達には戻れない、恋人同士でもない」 曖昧な関係の中で、出口のない繰り返しに囚われていく。  

R15指定の矛盾

ここに、本作の立ち位置を決定づける矛盾が存在する。描かれるのは14歳の中学生の物語  であるにもかかわらず、R15指定により、当の14歳は本作を鑑賞することができない。「同年代の子が観るべき映画な気もする」が「過激な内容だから無理だろう」と、そのジレンマが指摘されている 。  

この矛盾こそが、本作の存在意義を明らかにしている。本作は、思春期の当事者に向けた「アドバイス」や「教訓」ではない。むしろ、その「痛々しい状況」 をすでに通り過ぎてきた大人たちが、自らの「焦燥感や絶望」 の記憶を思い出し、分析するための「材料」として機能するのである。子を持つ親世代も含め、観客は安全な場所から、かつての自分、あるいは今もどこかにいる誰かの傷を、改めて見つめ直させられることになる。  

IV. 磯辺恵介の心の闇:トラウマ、償い、そしてSNS上の「幽霊」

物語が中盤から後半にかけて深みを増していくのは、磯辺が抱える心の傷が明らかになるからである。彼の行動は、過去にいじめを苦に自殺した実の兄  への「償い」 という気持ちに強く結びついている。  

SNSアカウントという「ネット上の幽霊」

磯辺の行動の中心にあるのが、SNS(Twitter)の使い方である。彼は、自殺した兄のアカウントを引き継ぎ、まるで兄が生きているかのように、その部屋から投稿を続けていた 。その動機は、「兄のツイートが止まることで、本当に兄の存在が消えてしまうようで怖かった」 という、痛切な喪失感であった。  

SNSによって自分を見失うことと「消された言葉」

しかし、磯辺がなぜ「闇堕ち」 と言われるほど変わり、小梅との関係を一方的に「断ち切ろうとする」 のか。それは単なる罪悪感  だけでは説明できない。  

磯辺の「償い」は、兄のSNSを「演じる」こと、つまりネット空間で兄の「幽霊」になることによって行われている。これは、磯辺自身の「自分らしさ」が失われていくことに他ならない。彼は「磯辺恵介」として生きることをやめ、兄の復讐者として「おまえら」—兄を死に追いやった「人の痛みを想像出来ない奴ら」—と向き合おうとする。  

「誰にも届かない磯部の言葉は自分自身によってデリートされた」シーンは決定的である 。小梅が抑圧的な「言葉」から「身体」へと逃げたように、磯辺もまた、自らの本当の感情(「絶対に許さない」)をSNSに「ツイートせず、デリートする」。彼の怒りと言葉は、小梅の虚無感と同じように、現実世界で口に出されることなく、心の中で破滅的に増えていく。  

V. ウエダアツシの映像スタイル:海辺、ノイズ、そして「風」

本作の映像スタイルは、「全体的にミュージックビデオのよう」 とも言える、意図的に洗練された美しさに基づいている。この美しさを音の面で支えるのが、音楽を担当した world's end girlfriend である 。特報映像の分析  によれば、その音楽は「悲壮さを含んだピアノ音と破滅的なノイズ音が融合」し、「“うみべ”の波打ち音」と不規則に響き合うと描写されている。  

「MV風」スタイルの意味—見た目の美しさと心の壊れ具合

「MVのよう」という評価は、時に「内容が薄い」(「あまり感情移入しにくかった」)という批判を含むことがある。しかし、world's end girlfriend の音楽は「恋愛のもたらす高揚感と過激さにカタルシスが同居した」もの  であり、このスタイルが単なる上辺だけの美しさでないことを示している。  

この「MV風」スタイルは、原作の持つ生々しさを薄めたり、隠したりしているのでも、ない。むしろ、それは主人公・小梅の「視線」そのものを映像にしているのである。

小梅は父親から譲り受けたカメラで、「漂流物」など「何も言わずにただそこにあるもの」を撮影する 。これは、彼女が「ごちゃごちゃ言わない」世界を求めている  ことの表れである。つまり、映画全体を覆うスタイリッシュな映像美は、小梅が自らの痛々しい現実を「写真」や「MV」のように美しく切り取ることで、なんとか自分の心のバランスを「平らにしている」 様子を描写した、高度な心理表現なのである。  

モチーフ分析:海辺とカメラ

舞台となる「海辺の小さな街」 は、「閉鎖的な場所」 という息苦しさの象徴であると同時に、「生命の起源」 としての救いの象徴でもある。漂流物  が流れ着く場所であり、すべてが始まり、すべてが終わる場所だ。そして小梅のカメラ  は、その世界に対する彼女の、自分から世界に関わろうとする安全な「視線」の表れである。  

VI. クライマックス:台風の夜と「風をあつめて」が持つ複数の意味

本作の映像・物語として最大の見せ場は、クライマックスの「台風のシーン」である。このシーンの再現度については、原作者の浅野いにお自身が「ほぼ完璧」「文化祭の看板が飛ぶ角度まで一緒だった」と絶賛している 。  

挿入曲の分析:はっぴいえんど「風をあつめて」

この非常に重要なシークエンス  で、印象的に使われるのが、はっぴいえんどの名曲「風をあつめて」である。この曲は「逆風や追い風など、人生における風のメタファー」として機能していると解釈できる 。  

懐かしい「風」と壊れていく「嵐」のぶつかり合い

しかし、なぜ1970年代の懐かしい名曲が、少年少女の関係が壊れていくクライマックス(台風)の真っ最中に流されなければならなかったのであろうか。これは単なる比喩ではない。ウエダ監督による意図的な異なる時代の組み合わせである。

浅野いにおが原作において、曲のテンポとコマ割りを合わせた  ように、映画は「風をあつめて」が象徴する「過ぎ去った穏やかな時代(あるいはそのイメージ)」の音楽と、彼らが直面する「破壊的な現実(台風)」の映像を、激しくぶつけ合わせる。  

彼らが集めている「風」は、穏やかなそよ風ではない。それは、彼らの関係も日常もすべてを吹き飛ばす「嵐」である。この選曲は痛烈な皮肉であり、過去のノスタルジーでは現代の絶望  からは救われないという、冷めた現実認識を示している。  

ラストシーンの演出:大滝詠一「それは僕じゃないよ」

この視点は、終盤の「深遠な演出」 によって強められる。小梅がイヤホンで聴いているスマートフォンの画面に、大滝詠一の「それは僕じゃないよ」という曲名が一瞬映る。これは、磯辺が兄の「幽霊」になったこと、そして小梅がもはや過去の自分ではないこと—彼らが心の崩壊と変化を経て、決定的に「かつての自分」ではなくなってしまったことを示す、残酷なまでに的確なエンディングである。  

VII. 総論:『うみべの女の子』が描いたもの

結論として、映画『うみべの女の子』は、「単なるエロに特化した作品」 では決してない。それは、浅野いにお  が原作で提示した「傷つけ合う少年少女たち」 の「精神的な幼さ」 を、映画という手法で丁寧に見事に描き切った、稀有な実写化である。  

この成功は、石川瑠華と青木柚  という二人の俳優が、「中学生そのもの」 としてスクリーンに存在できたことが全てである。そして、world's end girlfriend  の破滅的なノイズと、はっぴいえんど  のノスタルジーが共存する優れた音楽の使い方、なにより中学生の「性」という極めて危険な題材を、主人公たちの「満たされない感情」 と「言葉にできない心の傷」 の表れとして描き切った、ウエダアツシ監督  の卓越した演出の勝利である。  

本作は、思春期の誰もが経験するかもしれない痛み  を描くと同時に、「体を重ねても、心を求めても、つながりきれない苦しさともどかしさ」 という、現代社会を生きる私たち自身の孤独な姿を突きつける、2020年代初頭の日本映画における最も重要な「青春映画の傑作」 の一つとして記憶されるべき作品である。