マッチョメ~ンのブログ

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『プレデター バッドランド』批評:新たなる神話か、失われた遺産か


映画館の暗闇で私が目撃したのは、一映画好きとして最も評価に窮する作品であった。結論から言えば、新作『プレデター バッドランド』は、単体のSFアドベンチャー映画としては驚くほど巧みに作られたエンターテインメント作品である。事前の低い期待値を裏切り、「思った以上に楽しめた」というのが偽らざる感想だ。


だが同時に、これは1987年から続く『プレデター』シリーズの遺産に対する、最も大胆な反逆でもある。その面白さの源泉は、従来のシリーズが提供してきた「恐怖」や「緊張感」とは全く異質のものだ。本作はもはや「プレデターではない」「全く別物」と断言できる。長年のファンであればあるほど、強烈な「これじゃない感」を抱くだろう。


本作の最大の問題は、映画の出来不出来ではなく、『プレデター』というタイトルを冠しているという事実そのものである。製作者は「面白いSF作品を作ることのみに集中」し、プレデター以外の「全てを刷新」した。その結果生まれたのは、『プレデター』という著名なIP(知的財産)のガワを借りた、全く別の映画だ。その作劇は『スター・ウォーズ』や『アバター』の文法に遥かに近い。この感想は、その「寄生」の巧みさと、その結果として失われたものの大きさについての分析である。



真の主役:惑星「バッドランド」という秀逸な世界観

本作の真の主役は、主人公のプレデター、デクではない。彼が放り込まれた惑星「バッドランド」そのものである。この過酷な生態系の構築こそ、本作最大の功績と言える。

シリーズで初めて、本格的に地球外の惑星がメイン舞台となり、そこは「ハンター×ハンターの暗黒大陸」 と形容されるにふさわしい、極度の弱肉強食の世界として描かれている。一歩足を踏み入れただけで、生物を襲う「キラー植物」、毒を放つ花、ナイフのように鋭い草、果ては「爆弾になる昆虫」 までが襲いかかる。

このVFXとクリーチャーデザインの品質は極めて高く、「久しぶりに新鮮でワクワクするSF要素」を観客に提供してくれる。


だが、この過酷な環境設定は、単なる背景美術ではない。それは、従来のプレデター像を破壊するための、計算され尽くした「脚本上の装置」として機能している。従来のプレデターは、ハイテク兵器を駆使し、格下の獲物(人間)を「狩る」存在だった。しかし、この「バッドランド」では、プレデター自身が食物連鎖の下位であり、「狩られる立場(獲物)」に置かれる。


この圧倒的に不利な環境下では、従来の「孤高の狩人」というスタイルは通用しない。だからこそ、主人公デクは他者(アンドロイドのティア)と「バディを組む」 ことを余儀なくされる。古参ファンが最も批判するであろう「プレデター像の崩壊」は、この「バッドランド」という舞台設定によって、論理的に強制されているのである。



アクションの革新性:「狩人」から「戦士(ウォリアー)」への転換

本作のアクションは、従来の「ハント(狩猟)」ではなく、「サバイバル」と「デュエル(決闘)」で構成されている。これは、プレデターを「卑怯な狩人」から「高潔な戦士」へと描き変える試みだ。

最大の見どころは、デクがプレデターの伝統的な装備(ステルス迷彩やプラズマキャノン)を失い、使えない状況で戦う点にある。彼はバッドランドの「生態系や環境を利用して」戦い、生物を手なずけて「相棒」や「武器」として活用する。この姿は、初代『プレデター』でダッチ(シュワルツェネッガー)が泥を塗り、罠を作って戦った姿への明確なオマージュであり、プレデターの代名詞である光学迷彩(ステルススーツ)を「一度も使用しない」ことは、真正面から敵と戦う彼の「武士道精神」の表れとして意図的に描かれている。


つまり、本作は「プレデターがダッチになる」という最大の逆転劇を仕掛けたのだ。我々は、プレデターの姿をしたダッチの成長物語 を見せられている。これが一部のファンには熱狂的に受け入れられ、同時に古参ファンには「人間的すぎる」 と拒絶される、諸刃の剣となっている。



異端者たちの絆:デクとアンドロイド・ティア

本作のドラマは、「最弱のプレデター」デクと「人間的なアンドロイド」ティアという、二人の「異端児」の化学反応によって駆動している。

主人公デクは、一族の掟に疑問を持つ「最弱のゴミ」として描かれる。彼は戦闘力そのものよりも「精神的な未熟さ」において弱い。


対するティアは、エル・ファニングが演じるアンドロイドで、印象的なことに上半身のみの姿で登場する。彼女は『エイリアン』シリーズでお馴染みの「ウェイランド・ユタニ(豊)社」製であり、その設定は『エイリアン2』のビショップへのオマージュを感じさせる。ティアはC-3POやR2-D2のように、おしゃべりで有能であり、生物の生態を理解するために「人間的な感受性」がプログラムされている。

このティアの存在こそが、本作のドラマ性を高める最大の功労者であり、同時にプレデターの神秘性を破壊した最大の「戦犯」でもある。


ティアは自動翻訳機能を持ち、デクと普通に会話する。この「翻訳」により、観客は初めてプレデターの内面を詳細に知ることになる。彼の兄への悲しみ、復讐心、そしてあろうことか「ジョーク」さえも。これにより、デクは「感情移入できる主人公」へと昇華された。

しかし、プレデターが「喋る」こと、それは彼らを「未知の怪物」から「異星人という名の人間」へと格下げする行為に他ならない。ティアの存在は、デクを主人公として機能させるための脚本上のエクスポジション装置であり、彼女の功績(ドラマ性の向上)と罪(神秘性の破壊)は表裏一体である。



PG-13と「血の出ない」戦場

本作はPG-13レイティングである。これは、R指定のホラーとゴア(流血描写)を期待するファンへの明確な裏切りだ。

最大の問題は、本作には「生身の人間キャラクターが一切登場しない」という、シリーズにおいて画期的な設定を採用した点にある。デクが戦う敵は、惑星のクリーチャーか、あるいは「ミルクのような色」の体液を流すアンドロイドだけだ。

これにより、シリーズの代名詞であった「グロテスクな描写」が完全に排除された。プレデターがいくら敵を破壊しても、そこに痛みはなく、「怖くなく、緊迫感に欠ける」という致命的な欠陥が生まれている。


「人間を登場させない」という設定は、PG-13(=より広範な観客層)を獲得するためにスタジオが編み出した「チートコード(抜け道)」に他ならない。ディズニー傘下で製作されるにあたり、プレデターIPを「ディズニー化」 し、広い市場に届けたいという商業的判断があったことは想像に難くない。その結果、映画は「プレデターが敵を斬り刻む」というビジュアルを維持しつつ、レイティングを通過できた。だがその代償として、シリーズの核であった「人間対プレデター」という種の存亡をかけた恐怖は、根本から去勢された。



「孤高の狩人」像の完全崩壊

古参ファンが抱く「これじゃない感」の根源は、プレデター像そのものの変質にある。

従来のプレデターは「一匹狼」が絶対的なルールだった。しかし本作のデクは、ティアと「バディを組む」友情や絆が描かれる。

プレデターは「狩る側」ではなく、父や兄に追われる「狩られる立場」に転落している。

そして何より、デクは「ずっと喋り」、人間的な感情を見せ、ジョークまで言う。彼はもはや「筋が通った男気のあるいいヤツ」 であり、ダークヒーロー、あるいは純粋なヒーローとして描かれている。


これは単なる「ディズニー化」に留まらず、現代の映画市場を席巻する「マーベル(スーパーヒーロー)映画」の文法への完全な書き換えである。未知の怪物であったプレデターは、観客に「共感」されるため、人間的な側面(家族愛、悲しみ、成長)を与えられ、行動原理は「高潔な武士道」 となった。

『バッドランド』は、プレデターという「キャラクターA」 を使った「スーパーヒーロー・オリジン・ストーリー」である。1987年のプレデターがコズミック・ホラーの存在だったとすれば、本作のプレデターは、マスクを被った異星人版のヒーローに変貌した。これが、IPがフランチャイズとして継続することの「苦しさ」 の正体だ。



拡張されるユニバース:「ウェイランド・ユタニ」という接続点

本作は単なるプレデター映画に留まらず、ディズニー傘下で『エイリアン』ユニバースとの再接続を試みる、壮大なフランチャイズ計画の第一歩である。

鍵となるのは、『エイリアンVSプレデター(AVP)』の系譜の設定だ。ティアが「ウェイランド・ユタニ社」製であると明言され、荷物運搬用の「パワーローダー」が登場する など、『エイリアン2』を彷彿とさせるオマージュが散見される。


これらは単なるファンサービスではない。ディズニーが『エイリアン』と『プレデター』という二大IPを、一つの巨大なシネマティック・ユニバースとして再構築する「布石」である。本作のラストが「明らかに続編を匂わせる」終わり方をしている のも、そのためだろう。我々は『プレデター バッドランド2』だけでなく、その先にある、ディズニー主導の新しい『エイリアンVSプレデター』の始まりを目撃している可能性がある。



結論:名を捨てて実を取った挑戦作。だが、その代償は。

最終的に、私はこの映画を「劇場で鑑賞する価値がある」と判断する。特に、デクの環境利用アクションやティアの分離戦闘、そして惑星バッドランドの圧倒的なスケール感は、サブスクリプションサービスで済ませると作品の良さが薄れるため、必ず劇場の大きなスクリーンと音響で体験すべきだ。


『プレデター バッドランド』は、そのタイトルが背負う重い遺産を自ら進んで放棄し、「プレデター以外の全てを刷新した」 挑戦的なSF映画である。それはまるで、一族の「掟」に反抗し、自らの道を切り開いた主人公デクそのもののようだ。

その結果、映画は「ホラー」を失い、「アドベンチャー」としての「楽しさ」を手に入れた。

古参ファンとして、その変貌には寂しさと、ある種の裏切りを感じる。孤高の狩人は死に、ディズニーの新たな「キャラクター」が誕生したのだから。しかし、一人の映画ファンとして、その手腕(VFX、世界観、アクション、キャラクター造形)は認めざるを得ない。


これは、1987年の『プレデター』の続編を観に行った者にとっては「1400円」 の価値しかないかもしれない。だが、新しいSFサバイバル映画を観に行った者にとっては、2000円以上の価値がある。この映画の評価は、観客がどちらの席に座るかによって、全く異なるものになるだろう。