#Man In The Mirror
それは消えてしまった。
言葉というのは音楽みたいなもんで、一度零れたものたちはふたたび同じように掬うことはできない。
なので。
仕方ないからひとり前を向く。
薄命の桜が満開だった。
せめて、そこに残っていた間にあいつの目に届いてくれたことを願う。
「憂う」ということばがあって。
そこに人が介在すると「優しさ」となる。
まさに彼を憂い、彼のために書いた言葉たちだった。
もしもそれは「君の優しさから来たものだね」と人から言われたら、それは少し違うような気もするが。
ただ、彼を憂いていたことは確かで、今も彼を思っている。
余計なお世話かもしれない。
まだ経験したことはないけれど、反抗期の子どもを持つ親の心境のようなのかもしれない。
触れたらささくれだっていて、それでいて今にも壊れてしまう程に脆く、危なっかしい。
どうすることもできず、ただ見守るしかない自分がそこにいる。
そう思ったことにも理由があって。
責任を感じているからだ。
責任?
裸にしたらそれは負い目かもしれない。
少なくとも、同じ場所を目指している身として。
早くに、自分は違うプロセスを辿ってしまったから。
近くで見守ることも出来ず、物理的に力や時間を貸すことも出来ず、憂うことしか出来なかった事実がある。だから、どうのこうのと言わずともただ憂い、プロセスは違えど到達点は同じだと信じたかった。今でもそう信じている。
果たしてそれが、ひとりよがりだとしても。
そうするしかなかったのだ。
人生ってのは、いつだってひとつしか歩けないから。
彼とはよく歌った。
そして笑った。
24時間遊び呆けて、25時間眠った。
散々バカをやり合ったし、きっと気付かずにいくつもの死線をも跨いでいたのだろう。
惜しまれるのは、そのどれもが気付けば過ぎたことになっている事だ。
時間の堆積と繋がりの強さは比例しないと思っているが、自分が感じるにあれこそが、「かけがえのない大切」であったと確信が持てる。
言葉にするととても滑稽だから。
だからそっとここに仕舞って在る。
中身のない、過ぎたことたちを。
今思えば。
あれらすべてのことが糧であり、歌となり、生きている意味だった。
そうして。
贅沢に思えることは無駄のように思えることたちばかりだ。
「夢の欠片」の終わりに彼は言う。
お前がいなければ決して生まれることなんてなかった曲のように。と。
「お前」というのは紛れもなく自分に向けられたものだと知りながら、だけれど未だに何も返せてはいない。
物語の当事者にされた途端、自分の負い目が立ちはだかる壁となり、口は開けど言葉はついてこなかった。
「まだ間に合うのか?」と問われても、その問いは自分の内で繰り返し反響するばかりだった。
差し伸ばした手のひらとは裏腹に、あの日零れてしまった一対の夢の欠片が、足元にやっぱり今も転がっている。
ほんとうに。
人生ってのは意味のない、贅沢な神様からのおくりものと思う。
半ばを過ぎても分からないことだらけだし。
どこへ向かっているのか。
何を求めているのか。
どこに辿り着くのか。
でも、果たしてそんなことはどうでも良くなっている。四十を越えて、そのうちすぐに見た目も今以上に老け込んでくるだろう。
ここまで来るに既に色んな服を着込んでしまっているせいで、現実裸では歩いてはいられないし。
だけどいつまで、そうしていられるだろうか。
裸で生まれてきたのだから、死ぬ時も裸の方がいいと思いながらでも、この世の中は現実にずっと複雑で厄介だ。
彼にとっても。
自分にとっても。
歩いてきてしまった時間だけが漫然とそこに在る。
どうすべきなのか。
分からなくったって良いとさえ思う。
少し汗ばむくらいの陽気の春が、目の前で散っている。
とても綺麗だ。
上着を脱ごうかどうか迷う。
いつか勇気持てたら。
自分らしくあるためと、彼のように脱ぎ捨てられるだろうか。
今更、虫のいい話だと拒絶されるだろうか。
また色を重ねるだけなのだろうか。
どちらにせよ、それでも構わない。
過不足なく、それが今の自分なのだ。
後悔も憂いも振り切って。
咲き誇れ、サクラ。
前を向いて。
約束の場所に向かって、ただ歩く。