第2のお誕生日はお昼に
久しぶりに回転寿司に行ってきました!!
最近子供が、近所にセルフサービスの讃岐うどんの
お店ができたので、うどんがいい!って言い張るよう
になってからというもの、お寿司はなかなか食べに
行けていなかったのです。
ちょうど、スシローで一皿90円キャンペーンやってたので
食べに行きました。いや~たまにはいいね。
最近はずっとおうちご飯ばっかりだったので、
ちょっと嬉しかったです。
さて、すっかりシリーズになってしまった振り返ってみた
ですが・・・
いろんな経験があって、辛いこと苦しいこともいっぱい
あって、それと同じくらい楽しいことも嬉しいことも
あって、どれもこれも、今自分にとって宝物になってる
なあ~って想います。
30代に入ってからは、子供を少し意識するようになって
きました。子供を作らないでいると決めた訳でもなく、
それでもすぐには欲しくないから、待って欲しいって
旦那さんには言ってました。
自分の準備が整っていなかったからね。
子供を可愛いとは思えなかったし、どう接していいのか
もわからなくて、ずっと遠ざけていました。
わたしが産んでもちゃんと育てられるかどうか・・・
20代の時はそんな風に思ってたの。
25歳とかでママになっていたらどうなってた
だろうね。今考えるとまた全然違った人生になってたかもね。
きっと千葉には引っ越さなかっただろうな。
東京都民でずっといたかも。
もしそうだったら子供もう15歳だね。すっご~~い!!
とにかく、わたしはまだまだいいやって思っていたものの、
30過ぎるとそろそろかなあ・・・って思い始めたよ。
それで、結婚して7年目、32歳の時に子供が授かりました。
わかったときは、そりゃ嬉しかったけど、不安が真っ先でした。
癒しの場の先生に電話で報告したものの、
『どうしましょう』みたいなことを言ったら、
『何言ってんの~~』って言われちゃいました(^^;)
不安はたっぷりあったけど、きっと準備が整った
から生まれてきたんだね。
子供はお腹の中にいるときずっと旦那さんから
『らくたろう~』って呼ばれていました(笑)
でもそれをそのまま名前にするのはあんまりだって
ことになり、航平と名付けました。
名字とちょっとリンクさせてみたんですが、この
名前結構まわりにたくさんあって、被りまくって
たなぁ。
早々と男の子だってわかって、大喜びしていたのは
わたしの両親でした。父は男の子が欲しかったらしく、
大喜びでしたよ!!
赤ちゃんが授かる前くらいから、義母の様子が少し
おかしいと気づき始めました。
義母は田舎で一人暮らしをして(義父はすでに他界されて)
いたのですが、アルツハイマー病になってしまったようで
した。
それで少しでも実家に近い方が、田舎にも帰りやすいって
ことになって、千葉に引っ越してきました。
旦那さんは、実家に戻りやすいように車の免許を取り、
わたしは慣れない産婦人科通いで、ふたりとも頑張ってた
時期です。
途中から助産院に転院しました。自然なお産をしたかった
ので、病院では生みたくなかったんです。
そのお陰でか、36時間という大難産になってしまい、
途中で弱音吐きました。こんなことなら病院にしておけば
よかった~ってね。
でもなんとかうまれるもんですね。
病院の検査で見落とされていた貧血が最後まで治らなかった
ので、出血がひどく、フラフラでしたけど、
そこからは毎日必死の闘いのスタートですね。
義母は運良く、田舎に新しくできた特別擁護老人ホームに
入ることができました。
自宅介護、してあげたかった。でも、妊婦ひとりでは
とうていどうすることもできず・・・
少しずつ弱ってわからなくなっていく義母を見ている
のはつらかったです。
子供は赤ちゃんからどんどん成長していくけど、それも
一緒に喜んでもらうどころではなかったからね。
もうちょっと早く産んでいれば、可愛がってあげてもらえ
たかなあ~なんても思ったよ。
書道が得意だった義母には命名を書いてもらったの。
それだけはよかったなって。
家族写真も義母とうちの母とも撮れたしね。
結局、義母は子供が幼稚園の年少さんの時に
亡くなりました。
食べたものを飲み込みきれなくて、肺炎になって
ホームから病院に転院させられてしまい、
週1回、週末にお見舞いに行くのを繰り返して
いました。
幼稚園には朝雨が降っていたら旦那さんが車で
送っていってくれたのですが、ずっと病院と家を
行ったり来たりしていたので、朝からいないことが
多くて、車を持っている幼稚園のママ友にお願いして
一緒に連れて行ってもらったり、小雨だったら
カッパ着て連れていったりしてました。
延命処置をどうしますか、この先も続けますか?
みたいな酷な選択もしなければならなくて、
旦那さんは本当につらかったと思います。
義母が亡くなる前の年から、わたしは温泉の
足ツボのバイトをしていました。義母が入院してしまい、
そのままバイトに行くことができなくなっちゃった。
わたしはこの時初めて身内を亡くす経験をしました。
義母はわたしとは孫とおばあちゃんくらいの年の差が
あって、義母というよりはおばあちゃん、という感じで
接していたような気がします。
病気のせいでか、後ろ向きになる義母を、癒しの場に
誘って、同じくらいの年の方とふれあってもらったり、
なんとかして元気づけてあげたいって思って
いろいろやってみたけど、義母を満足させてあげられる
ことはな~~んもできなかったな・・・
きっといつも我慢してくれてたんだな~って思います。
お義母さん孝行、何もできないままでした。
わからなくなっていく義母にも、少しも優しくできませんでした。
ただ、怖くて戸惑ってるばかりだったね。
だけど今はきっと家族のことを見守っていてくれてるって
感じてるよ。これからもどうぞ見守っていてね。
子育ては不安との闘いでした。何もかも初めての体験だしね。
そんな中、千葉に引っ越したばかりで友達も誰もいなかった
から必死でママ友を自分から作ろうとしてた。
公園デビューとか、そういうのはちょっとプレッシャーだったし、
母親学級とかで知り合った人にこっちから電話して遊んで
もらったり、同い年の赤ちゃんのママと交流したなあ。
その頃のお友達と今でも一緒にバーベキューしたり、キャンプ
したり仲良くさせてもらってるよ。
もう長い友達になったな~~
あの頃は必死だったけどね。
幼稚園でもいろんな経験させてもらったよ。
ママ友ともいろいろ交流させてもらったし、バザー委員を
したりもいい経験。
何もかも全部、今思えば必死だったな~~
幼稚園3年間もあっという間に過ぎて、子供も
小学生になった。
そして、今この時に繋がっているんだね。
長々とおつきあいいただいてありがとうございました!
ちょこちょこと思い出したエピソードとかもあるので、
またちょっとずつ書けたらいいなって思います。
自分の中で自分自身がちょっと整理できた気がします。
読んでくださってどうもありがとう(^∇^)
素敵な週末をお過ごしくださいね!!

久しぶりに回転寿司に行ってきました!!
最近子供が、近所にセルフサービスの讃岐うどんの
お店ができたので、うどんがいい!って言い張るよう
になってからというもの、お寿司はなかなか食べに
行けていなかったのです。
ちょうど、スシローで一皿90円キャンペーンやってたので
食べに行きました。いや~たまにはいいね。
最近はずっとおうちご飯ばっかりだったので、
ちょっと嬉しかったです。
さて、すっかりシリーズになってしまった振り返ってみた
ですが・・・
いろんな経験があって、辛いこと苦しいこともいっぱい
あって、それと同じくらい楽しいことも嬉しいことも
あって、どれもこれも、今自分にとって宝物になってる
なあ~って想います。
30代に入ってからは、子供を少し意識するようになって
きました。子供を作らないでいると決めた訳でもなく、
それでもすぐには欲しくないから、待って欲しいって
旦那さんには言ってました。
自分の準備が整っていなかったからね。
子供を可愛いとは思えなかったし、どう接していいのか
もわからなくて、ずっと遠ざけていました。
わたしが産んでもちゃんと育てられるかどうか・・・
20代の時はそんな風に思ってたの。
25歳とかでママになっていたらどうなってた
だろうね。今考えるとまた全然違った人生になってたかもね。
きっと千葉には引っ越さなかっただろうな。
東京都民でずっといたかも。
もしそうだったら子供もう15歳だね。すっご~~い!!
とにかく、わたしはまだまだいいやって思っていたものの、
30過ぎるとそろそろかなあ・・・って思い始めたよ。
それで、結婚して7年目、32歳の時に子供が授かりました。
わかったときは、そりゃ嬉しかったけど、不安が真っ先でした。
癒しの場の先生に電話で報告したものの、
『どうしましょう』みたいなことを言ったら、
『何言ってんの~~』って言われちゃいました(^^;)
不安はたっぷりあったけど、きっと準備が整った
から生まれてきたんだね。
子供はお腹の中にいるときずっと旦那さんから
『らくたろう~』って呼ばれていました(笑)
でもそれをそのまま名前にするのはあんまりだって
ことになり、航平と名付けました。
名字とちょっとリンクさせてみたんですが、この
名前結構まわりにたくさんあって、被りまくって
たなぁ。
早々と男の子だってわかって、大喜びしていたのは
わたしの両親でした。父は男の子が欲しかったらしく、
大喜びでしたよ!!
赤ちゃんが授かる前くらいから、義母の様子が少し
おかしいと気づき始めました。
義母は田舎で一人暮らしをして(義父はすでに他界されて)
いたのですが、アルツハイマー病になってしまったようで
した。
それで少しでも実家に近い方が、田舎にも帰りやすいって
ことになって、千葉に引っ越してきました。
旦那さんは、実家に戻りやすいように車の免許を取り、
わたしは慣れない産婦人科通いで、ふたりとも頑張ってた
時期です。
途中から助産院に転院しました。自然なお産をしたかった
ので、病院では生みたくなかったんです。
そのお陰でか、36時間という大難産になってしまい、
途中で弱音吐きました。こんなことなら病院にしておけば
よかった~ってね。
でもなんとかうまれるもんですね。
病院の検査で見落とされていた貧血が最後まで治らなかった
ので、出血がひどく、フラフラでしたけど、
そこからは毎日必死の闘いのスタートですね。
義母は運良く、田舎に新しくできた特別擁護老人ホームに
入ることができました。
自宅介護、してあげたかった。でも、妊婦ひとりでは
とうていどうすることもできず・・・
少しずつ弱ってわからなくなっていく義母を見ている
のはつらかったです。
子供は赤ちゃんからどんどん成長していくけど、それも
一緒に喜んでもらうどころではなかったからね。
もうちょっと早く産んでいれば、可愛がってあげてもらえ
たかなあ~なんても思ったよ。
書道が得意だった義母には命名を書いてもらったの。
それだけはよかったなって。
家族写真も義母とうちの母とも撮れたしね。
結局、義母は子供が幼稚園の年少さんの時に
亡くなりました。
食べたものを飲み込みきれなくて、肺炎になって
ホームから病院に転院させられてしまい、
週1回、週末にお見舞いに行くのを繰り返して
いました。
幼稚園には朝雨が降っていたら旦那さんが車で
送っていってくれたのですが、ずっと病院と家を
行ったり来たりしていたので、朝からいないことが
多くて、車を持っている幼稚園のママ友にお願いして
一緒に連れて行ってもらったり、小雨だったら
カッパ着て連れていったりしてました。
延命処置をどうしますか、この先も続けますか?
みたいな酷な選択もしなければならなくて、
旦那さんは本当につらかったと思います。
義母が亡くなる前の年から、わたしは温泉の
足ツボのバイトをしていました。義母が入院してしまい、
そのままバイトに行くことができなくなっちゃった。
わたしはこの時初めて身内を亡くす経験をしました。
義母はわたしとは孫とおばあちゃんくらいの年の差が
あって、義母というよりはおばあちゃん、という感じで
接していたような気がします。
病気のせいでか、後ろ向きになる義母を、癒しの場に
誘って、同じくらいの年の方とふれあってもらったり、
なんとかして元気づけてあげたいって思って
いろいろやってみたけど、義母を満足させてあげられる
ことはな~~んもできなかったな・・・
きっといつも我慢してくれてたんだな~って思います。
お義母さん孝行、何もできないままでした。
わからなくなっていく義母にも、少しも優しくできませんでした。
ただ、怖くて戸惑ってるばかりだったね。
だけど今はきっと家族のことを見守っていてくれてるって
感じてるよ。これからもどうぞ見守っていてね。
子育ては不安との闘いでした。何もかも初めての体験だしね。
そんな中、千葉に引っ越したばかりで友達も誰もいなかった
から必死でママ友を自分から作ろうとしてた。
公園デビューとか、そういうのはちょっとプレッシャーだったし、
母親学級とかで知り合った人にこっちから電話して遊んで
もらったり、同い年の赤ちゃんのママと交流したなあ。
その頃のお友達と今でも一緒にバーベキューしたり、キャンプ
したり仲良くさせてもらってるよ。
もう長い友達になったな~~
あの頃は必死だったけどね。
幼稚園でもいろんな経験させてもらったよ。
ママ友ともいろいろ交流させてもらったし、バザー委員を
したりもいい経験。
何もかも全部、今思えば必死だったな~~
幼稚園3年間もあっという間に過ぎて、子供も
小学生になった。
そして、今この時に繋がっているんだね。
長々とおつきあいいただいてありがとうございました!
ちょこちょこと思い出したエピソードとかもあるので、
またちょっとずつ書けたらいいなって思います。
自分の中で自分自身がちょっと整理できた気がします。
読んでくださってどうもありがとう(^∇^)
素敵な週末をお過ごしくださいね!!
