美容とタロットで 幸せになる占い師のせおてん☆瀬尾香代子です。
矩子さんからの解散宣言から
矩子さんからの愛を感じているのに…
零期生のみんなが 卒業を受け止めているのに
矩子さんも 関係が変わらないと言っているのに
私は 切なくて 心が沈んでどうしようもないのなぜなんだろう?
そんな感情を ずっと抱きしめていました。
悲しく切ないと感じている自分
こんな思いは もうしたくないと思っていました…
もうしたくないってことは、 したことがあるんだ…
この感情を未消化のままにしているから
私は また 感じているんだろう
いつ感じたのだろう?
そんなことを 思っていました。
そして
昨日 夢を見ました(英国ダイアナ妃の登場、超びっくり…)
夢の中で、ダイアナ妃は私の本棚にあるダイアナ妃の古いアルバム本を見つけました。
(私はダイアナ妃の大ファンのようです…)
そのアルバム本を 大事そうに手に取り
私に向かって 「ありがとう」と笑顔でおっしゃって
私も 凄く嬉しそうに笑顔で「はい」と答えていました。
そこへ 関係者の制止を振り切るような形で
若い娘さんが ダイアナ妃のところに走ってやってきて
「ダイアナ妃の大ファンです。愛しています。」と アピールしました。
ダイアナ妃は 大事にアルバム本を手に取ったまま
「私はこの本を見るまで、 愛がある事を知りませんでしたが、
それでも 私を愛してくれてる愛があります。
自分を通したいのは、自分を見てもらいたいだけです」と言われました。
そんな場面の夢をみて 私は、ハッと目が覚めました。
相手が知らなくても 分からなくても 愛がある
愛は存在するんだと教えてくれた夢でした。
矩子さんに 私を見てもらってるという承認が、なければ
愛ではなくなると感じる、
それが耐えられなかったのか…
自分のわかる形で なければ 愛とは 思えない…
師弟愛とは 違いますが、
目に見える愛の形が欲しかった自分を知りました。
師弟愛について こんな記事がありました。
師弟愛 師とは何か
師とは、学校の先生とは違う。学校の先生は、師とは異質の存在である。
師は選ぶものである。師は強要されるものではない。
また、弟子も選ばれるものである。しかし、試験によって選ばれるのではない。
人格や熱意によって選ばれるのである。故に、師と弟子との間は、極めて主観的なものである。だからこそ、愛情によって結ばれているのである。それが師弟愛である。
故に、師と学校の先生は違う。学校の先生を生徒は選べない。先生は生徒を選べない。だから、学校の先生と師とは異質の存在である。ただ、教え、教わるという外見的行為、行動は共通している。だから、師と先生を混同するのである。師と先生係に一体となるとしたら、それは偶然に過ぎない。師と学校の先生とは違うのである。
師の問題は、弟子の問題なのである。
教わる姿勢ができていない者を指導することはできないからである。
心の底から、師の教えを受けようとするから、師の教えを理解することができる。
身に付くのである。いい加減な気持ちで教えを受けても反発しか残らない。
克己復礼。学ぶと言う事は、先ず自分に克(か)たねばならない。
素直にならなければ、相手を受け容れることができないのである。
学問は、人に言われてできるようなものではない。
自ら進んで、学ぶ心がなければ絶えられない。つまり、学とは、志すものなのである。
それ故に、師の問題は、弟子の問題である。教えてくれないなどと不平を言えば、教えようがない。だからこそ、かつては、門前で師の許しをえてから学んだのである。
師弟関係で最も問われるのは、人格である。
教えるのに値する人か。教わるのに値するかである人かである。
なぜならば、師から学ぶのは、全人格的なもの、生きることそのものであるからである。
師とは、人生の師である。人生いかに生きるかを教えてくれるのが師である。
人間としての生き方、出処進退を指導してくれるのが師である。
師とは、指導者である。
師から学ぶものは、たんなる、知識や技術、処世術ではない。
現世利益を求めても師からは何も受けられない。
学ぶと言う事は、命懸けなことである。本来、修業なのである。
師たる者は、自分が人生を賭けて体得した者を弟子に与えるのである。
教える者も、教わる者も中途半端な気持ちではできない。故に、今でも禅寺では、
三日間門前で試されるのである。教えてくれないと恨み言を言うようでは、
学ぶ姿勢そのものができていないことになる。学問には、体得する以外、
学ぶ事のできないことが数多く含まれているのである。
師は、自分の全てを与えるのであり、また、弟子は、師の全てを学ぶのであるから、師弟愛ほど深い者はない。全身全霊を賭けて教えるのであり、全身全霊を賭して学ぶのである。師弟愛は、母とこの愛に勝とも劣らないくらい深い絆がある。
だからこそ、師の恩に報いるために、弟子は、命懸けで、師の教えを守ったのである。
ただ、それほど強い動機なくとも、教えを受けると言う事は、大変に尊い行為であり。かつては、その尊さが、仰げば尊しの様に歌にまで唄われるほど人々の間に浸透していたのである。三尺下がって師の影を踏まず。仰げば、尊し我が師の恩である。
本来、師弟関係の根本は恩と義という関係なのである。
自分に必要なもの、自分が求めるものをいただくのである。
感謝の念がなければ学びはできない。学ぶものの価値は、自分で決めるのである。
疎略に扱えば、有難味もなくなる。師は、長い年月を掛けて身につけたものを弟子に与えるのである。その気で教えを請わなければ体得できるものではない。つまり、
学問は体得するものでただ、本を読めばえられる質のものとは違う。
その点を現代人は錯覚しているのである。師は、師である。師という存在そのものが教えなのである。
日本人は、いつの頃か、恩という思想を捨てた。
父母の恩、衆生の恩、国の恩、四恩、一宿一飯の恩、師の恩。この様に、恩という概念が、かつての日本人の人間関係の中核にあった。その恩が義理人情の素なのである。恩着せがましいことはやめろ。悪い事だ、嫌味な事だと言って捨てさせた。恩に変わったのが貸し借りである。借りたものは返せばいいという考えである。しかし、恩は、貸借関係ではない。
心の問題である。奥深いものである。ただ返せばいいという問題ではない。
だからこそ真実、真心、誠意が大切になるのである。それが日本人の人間の根本にあった。
師の恩は返せばいいという関係ではない。
師と弟子との関係の根本は、愛なのである。
私には、まだ まだ気付いてない愛が、沢山ありそうです…
今回の意味の一つは、愛を気づいていくことなんだと思います
全ては幸せになるために!
矩子さん
家族であるプロアゲの皆さま
ブログを呼んで下さった貴方様
これからもずっと一緒にいます。
見守っててください!
見守っています!
ありがとうございました!
M&Cせおかよこビュウティサロン
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感謝 せお(てん)かよこ
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