昨日友達の家で終電を逃してオールして、今日こそは生活リズムを戻そうと思ってまたダラダラと夜更かししてしまっている。
俺のこの悪癖、マジでどうにかしたい。

最近セクシャルマイノリティに関して世間が騒がしい。認められるべきだとか、銭湯は禁止にして欲しいだとか、云々。
ただ、色んな意見があるにせよ、セクシャルマイノリティという概念を真っ向から否定する人はもうそうそういないだろう。

俺はここ最近自分のセクシャリティをカミングアウトすることが増えた。その中で気づいたことが1つ。女性は、わたしもバイである、というカミングアウトをしてくる人が多い。そこまではいかなくとも、わたしも女の子とやってみたい!付き合ってみたい!と言い出す子は結構多い。
彼女たちは本当にそれを言っているのだろうし、否定はしないが、1つ言いたい。セクシャリティはアクセサリーではない。
他の人間と違う、女の子と違う、という自身の個性の演出のためにバイであると公言する女性が多いように感じる。彼女らはその実、本当に女性と付き合ったこともなければ夜を過ごしたこともない。
俺の周りの自称バイの女性は精々女性ともやれないことはない。くらいの感覚の人が多い。
結局男の方が遥かに好きで、最終男の元へいくならば、本気で女性しか愛せない女性と付き合うのは失礼だと思う。

そんなこと言いながら俺もバイだし、まあ他人のことをあれこれ言う権利はあんまないかもしんないけど。

他にもカミングアウトをしたときの反応として、きっと大変な思いをしたでしょう?と同情されるパターンもよくある。
多分、世間が思うほどセクシャルマイノリティの人たちは生きづらいとは感じていない。
カミングアウトする必要のないところではわざわざしないし、そこではノンケとして生きる。一方2丁目に足を運べば同じような人たちと酒が飲める。いわば完璧に住み分けができている。確かに大好きな友達に自分の根幹の部分を知ってもらえずもどかしい思いをすることはあるが、精々その程度で、別に生きづらいとまでは感じたことがないし、恐らく他のセクシャルマイノリティに聞いても同じように答える人が多いだろう。

この同情は1つ重大な問題を孕んでいる。
セクシャルマイノリティ慮りすぎ問題である。
例えば以下の2つの例をあげたいと思う。

ゲイの男がノンケの男と会いたいと言ったとき、ノンケの男は「変に期待持たれたくないから嫌だ。」と断った。

男が女に会いたいと言ったとき、女は「変に期待持たれたくないから嫌だ」と断った。

この2つを見たとき、前者ではノンケの男に「自意識過剰だ」「ゲイの人もお前みたいなブス興味ない」などの批判が飛んでくるだろう。
一方後者では、女の子に同情が集まるだろうし、女の子が男の誘いを断るのは仕方ないし、当然あることだ。という風潮は厳然としてあるように思う。

自身が性的対象として認めていない相手に性的対象として見られるのって、誰でも気持ちが悪いと感じるものだ。しかも、性的対象として見ていないことは客観的証明ができないから、ゲイの男に対してノンケの男が、男に対して女が、信用できないと言ったとして、それにはどちらも正当性があるように思う。

これが先に述べたセクシャルマイノリティ慮りすぎ問題である。
現代においては、弱者は最強であると言って良い。弱者を更に否定したり、排斥しようとしたりすることは無条件で悪とされ、強者はいつも弱者を慮ることを強いられる。
そのためみんながみんな口を揃えて我こそが弱者である、と主張する。そんな時代が現代だと俺は思う。
セクシャルマイノリティは読んで字の如くマイノリティであり、社会的には弱者のような見方をされている。だからこそ彼らを不必要なまでに護ろうとする動きは強い。
それは本当に彼らのためになっているのだろうか?思考停止で弱者を肯定することが本当に良いことか?
これは男女においても言えることで、女性は弱いから男は女を丁重に扱え、というような論調は強い。

本当に大事なのは自分の頭で考え、行動することであり、そのぶつかり合いの中で人は成長していく。

人とのぶつかり合いを避け、無思考で弱者を守ることが正解ではない。と俺は思います。

駄文失礼いたしました。