なぜ怒るのか。。

体に毒なのに。



相手に向けるものでは、ない。

自分の向上心になるような、浄化、が欲しい。



表現に怒ることが多い。

上目線で話される時とか。

でも上目線は上目線なだけで。

単語の羅列に、そんなに意味を持たせることもない。

カルチャーだって違う。

カルチャーが一緒だと思うことなんか、おこがましい。

相手のことを理解出来ているなんて思い込みなんか、もっと、おこがましい。



仮の話で、相手が自分に対して支配欲からくる何か過剰な表現をしていたことがあったとして。

でも、それ、は自分とどう、関係がある?

相手の支配欲が、自分に何か影響とか、与えうる?

相手の思想は相手の思想。自分の思想や理想は、自分の思想や理想。



もし仮の話で、AさんとBさんが、生まれた時から紐で縛られていて、

同じモノを見て、同じモノを食べて、同じだけ寝て、

それでも、違う。と思う。

考えてきたことは、違う、と思う。



同じ生活は人を似せる。とは言える。

けど、違う。

違うまま。




たぶん、おこがましい。

相手に尊重の意思がないのは、違う。




仮に、攻撃的な話し方をされても、

攻撃されていない。



傷つけようと意図してやったとしても

傷つけばいい、って、ものなんかじゃない。




生きる、を楽しむ、というなら、

あるがまま、をもっとまず、楽しんでみる。



予期せぬ支配欲は、

予期しなくて良いし、その欲と自分は影響されるものではない。



悪意に対抗する本能、って底にあるんだろう。

で、反応するんだろう。


でも、それは、見極めが浅いのだから。

見抜く目、見抜く心、見抜く頭脳、


そういうのがあれば、いい。




縄張り意識とか、心の中の奥のそれは、

もっとなにかを生産するなにかへチェンジ。




走り抜けたような人生を送るなら。
自分の人生、って、言いたい、なら。




自由だよ、とっくに。
ひとつの方法が成功した。

本で分からないところがあった時に、
分からないところを分かる範囲に留めて、
他の文章から意味を補って推測すること。

英語を勉強していた時と同じだ。


自分には生真面目なところがあって、
節々で分かるまで止めていたことがある。

止めると留める、は違う。

自分が知りたいことは、
自分なりのルートで辿り着けばよいということ。


未知なるAは、
分かる部分と分からない部分が分かってから、分かる。

分からないものは、分からない。
何を調べていいのか、分からないからだ。


引き算の意味がどうしても分からない時は
足し算が分かればヒントになるのだろう。



流れを止めない。大事だな。



流れを作るのも、今後大事になるのだろう。
そんな時は、圧倒的な量と圧倒的なスピードと圧倒的な没入感。
隙間にえいやと始める感覚。
そんなのが必要になるのだろう。もう準備はある。



ぼやっとしてる時は?
目的をはっきりさせる。途中の段階をはっきりさせる。自分のありたい姿をはっきりさせる。



なので、判別分析とロジスティック分析と、数量化理論Ⅱ類、を勉強していく。
相関で思い出したが、日々それぞれ関わりのないものを無意識に結び付けてしまっていないだろうか。

つまり、事実ベースでは無相関なものを、何か思い込みを加えて相関関係、正の相関にしてないだろうか。

周りが何であれ、自分は自分のはず。


相関関係は意図して作るもの、縛られるものであってはならない。