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グレゴリオ暦(グレゴリオれき、: Calendario gregoriano)は、にがを改良して制定したである。現行のとして世界各国で用いられている。単に(: Ornatus)と呼ばれる場合もある。はキリスト紀元()を用いる。

には1年を365日とするが、400年間に(100回ではなく)97回のを置いてその年を366日とすることにより、400年間における1年の平均日数を、365日+97/400 = 365.2425日、とすることがグレゴリオ暦の本伽扦ⅳ搿¥长纹骄帐?65.2425日は、実際に観測で求められる平均(回帰年)の 365.242 189 572日(2013年年央値)に比べて26.821秒だけ長い。

では5年()に採用され、明治5年12月2日の翌日を明治6年1月1日(グレゴリオ暦の)とした。

制定の概要[]

キリスト教においては、重要な祭日であるの日付は毎年の日を起点として定義されるが、(325年)において春分日はユリウス暦上で毎年3月21日とすることが決められていた。 によって紀元前45年に制定されて以降、キリスト教文化圏を中心に使用されてきたは、暦年の平均日数を365.25日とする近似法である。しかし、実際のは、約365.2422日であるので、毎年少しずつ暦が、そして春分日がずれていくことになる。

後半には、ユリウス暦上の日である3月21日に対して、実際の春分日(天文現象としての太陽の通過日)は平均してユリウス暦上の3月11日となり、10日ものずれが生じていた。このため、は、改暦委員会に暦法改正を委託した。委員会の作業の末に完成した新しい暦はに発布され、()の翌日を、を連続させながらも10日間を省いて、()とすることを定めた。

なおグレゴリオ暦を以前に遡って適用すると、からまでは、ユリウス暦と同じ日付となる(も参照)。

ユリウス暦によるずれ[]

の1年は、実際の1に比べて、365.25日 - 約365.2422日 = 約0.0078日(約11分15秒)長い。このため、上で太陽が特定の点(、、、など)を通過するというの発生日時は、暦上は4年毎に約0.0312日(0.0078日×4)ずつ早まって行き、約128年で1日分だけ早まることになる。この近似はユリウス暦の制定当時の技術水準を考えれば非常に高精度であったと言えるが、さすがに千数百年も暦の運用が続くと天文現象の発生日時の暦上の変動は無視できないものとなっていった。 1582年まで用いられていたでは、通常の年()は1年を365日とし、4年ごとに置くを366日とし、これによって平均年を365.25日としていた。

365日+1/4 = 365.25(日)……1年間の平均日数(平均年)= 正確に31 557 600秒 = 365日6時間

しかし、平均(実際に地球が太陽の周りを1周する平均日数)は、365日5時間48分45,ルイ・ヴィトン財布.179秒 = 31 556 925.179秒 = 約365.242 189 572日(2013年年央)である。このため、では1年で11分14.821秒のずれが生じ、約128年で1日のずれとなる。前述の通り、16世紀末に10日ものずれが生じていたのはこのためである。

31 557 600秒/年 - 31 556 925.179秒/年 = 674.821秒/年 = 11分14.821秒/年 …… 1年ごとのずれ
86 400秒/日( = 1日)÷ 674.821秒/年 = 128.03 年…… 1日のずれが生じる年数

グレゴリオ暦の[]

グレゴリオ改暦が議論され始めていた1560年頃には、平均太陽年は、365.2422日であることが知られていた。 (365.25日 - 365.2422日)×400年 = 3.12日/400年 であるから、ユリウス暦における置閏法(400年間で100回の閏年)に比べて400年間に3回の閏年を省けば、かなりよい近似となることが分かる。このため、グレゴリオ暦では、400年間に、97回( = 100 - 3)のを設けることにより、1年の平均日数を365.2425日 = 365日5時間49分12秒 = 正確に 31 556 952秒 としたのである。

365日+97/400 = 365.2425(日/年)……グレゴリオ暦による1年の平均日数

なお、400年間の日数は、365.2425 × 400 = 146 097日であり、これは7で割り切れる(146 097÷7 = 20 871 )ので、グレゴリオ暦は、も含めて400年のである。

400年間に3回のを省くには様々な方法があり得る。3回分の平年がなるべく均等に分布すること、分かりやすく記憶しやすいことを考慮して、「の年数が100で割り切れ、かつ400では割り切れない年はとする。これ以外の年では西暦年数が4で割り切れる年は閏年とする。」というルールが採用された。

100で割り切れる年は400年間につき4回あるが、400で割り切れる年は400年間につき1回だけである。4回 - 1回 = 3回、なので、以上のルールによって、ユリウス暦では閏年になる3回分の年をグレゴリオ暦では平年とすることができるのである。

例えば西暦、、、、、、は100で割り切れるが400では割り切れないので、これらの年は平年である。これに対して、西暦、、は100で割り切れ、かつ400で割り切れるので、これらの年は閏年である。

西暦年の平年?閏年
平年?閏年の区分
1600年閏年
1700年 平年
1800年 平年
1900年 平年
2000年 閏年
2100年 平年
2200年 平年
2300年 平年
2400年 閏年
2500年 平年
2600年 平年
2700年 平年
2800年 閏年

およびのそれぞれにおける各月の日数は、グレゴリオ暦においてもユリウス暦と同じである。すなわち、1月、3月、5月、7月、8月、10月、12月は31日、4月、6月、9月、11月は30日、2月はが28日、は29日である。

通日数の計算はを参照のこと。

改暦委員会と改暦案の提案[]

ユリウス暦による春分日のずれを、としても無視できなくなり、実際の春分日を第1の頃の3月21日に戻すため、( - )においてに暦法改正を委託した。

時の教皇は、これを受けてにシルレトを中心とする委員会を発足させ、の研究を始めさせた。この委員会のメンバーには、最初の改暦案を考案した天文学者の()の弟であるアントニウス?リリウスや数学者らが含まれていた。 委員会が1577年に刊行したCompendium novae rationis restituendi kalendarium(Compendium of the New Plan for Restoring the Calendar: 暦改正の新しい原理の大要)という24ページの冊子によると、アロイシウスは1252年に書かれた()における365日5時間49分16秒 = 365.242 5463日を採用し、改暦案を考案したのである。しかし、アロイシウスは1576年に死亡しており、その年に実際に案を委員会に提出したのは弟のアントニウスである

なお、この365.2425日という値を算出したのはであるとの説がある[]が、コペルニクスは改暦案の提案には関わっていないので、この説は成立しない。

グレゴリオ暦の精度[]

前々項で述べたように、本来は400年間で3.12日の閏年の省略とすべきところを、整数値である3日間の省略としたのであるから、1年間では、(3.12日 - 3.00日)/400年 ×86 400秒/日 = 約26秒/年の誤差が生じることは、当時から計算されていた。

これを最近値で計算し直すと、下記のようにグレゴリオ暦における平均の1年は、実際に観測される平均(2013年年央)に比べて26.821秒(= 約0.000 310 428日)だけ長い。このずれは約3221年で1日に達する。

365.2425日/年 × 86 400秒/日 = 31 556 952秒/年 
31 556 952秒/年 - 31 556 925.179秒/年 = 26.821秒/年……1年ごとのずれ
86 400秒/日( = 1日)÷26.821秒/年 = 3221.36(年)……1日のずれが生じる年数

以上のように、では1日のずれが生じるまでに約128年しかかからなかったのに対して、グレゴリオ暦では同じく1日のずれが生じるまでに約3221年を要するまでに精度を高めたものとなった。

ただし、上記の年数は平均が不変としたときの計算であって、実際には平均は100年(正確には1)ごとに0.532秒ずつ短くなっている(の項を参照)。このため、3221年後には、約17秒ほど平均が短くなっていることを考慮すると、グレゴリオ暦との1日のずれはもっと早い時点で起こることになる(、)。

なお、春分日時の間隔に着目した誤差は歳差などの影響により上記の計算とは異なり、西暦2000年時点で 7700年に1日、明治改暦(1873年)時点で7200年に1日となる。

グレゴリオ暦の各国?各地域における導入[]

ユリウス暦と太陽年(実際の季節)とのずれは、の哲学者が指摘してから300年もの間顧みられず、16世紀になって宗教上の問題が顕著になるまで放置された。このずれを修正し新たにグレゴリオ暦を制定した後も、それがローマ教皇による発令だったためか、その導入時期は国?地域によってまちまちであった。ヨーロッパ圏内であっても、の国は比較的早く導入したが、一方でそうでない国では導入までに少なくとも100年以上かかった。

プロテスタント[]

諸国については、グレゴリオ暦への改暦に消極的だった理由の一つとして、の日付の決定がある。自らの祭事の日付をカトリックが定めた暦によって決められることを嫌ったわけである。しかし、ユリウス暦の日付がずれており、ずれた日付を基に祭日を決めることに問題があることは、プロテスタントの宗教家も認識はしていた。このためグレゴリオ暦は非カトリック国にも徐々にだが浸透した。ドイツのプロテスタント諸国は、日付の決定のみグレゴリオ暦を使用するが、復活祭の日付の計算にはプロテスタントのドイツ人天文学者が作成したを使うということで妥協した。この暦はと呼ばれた。しかしケプラーはグレゴリオ暦の方が優れていることを知っていたため、日付計算はすべてグレゴリオ暦で行っていた。このため、実俚膜摔细牧紩筏膝哎欹触辚獣筏怯嬎悚工毪韦趣郅芡袱坤盲俊¥长瓮讌fはうまくいき、周辺プロテスタント諸国もこれに追随した。

正教会[]

が優勢なでは、より長い時間がかかった。16世紀、はグレゴリオ暦を否認し、他の正教会でもグレゴリオ暦を承認する教会はなかった。このことはが不完全なものに終わる結果にも影響があった。

現在でも正教会は、を除いてグレゴリオ暦を使用していない。がに採用した暦は(: )と呼ばれるものであり、厳密にはグレゴリオ暦ではないが、グレゴリオ暦とユリウス暦の月日の修正が行われ、2800年までは二つの暦の間にずれが出ないようになっている(2800年以降は再びずれが生じる)。

今でも、、、、はユリウス暦を使用している。ただし、ロシアでも教会以外の一般社会ではグレゴリオ暦を採用している。従って、ユリウス暦12月25日のはロシアのカレンダーでは「1月7日」と表示されている。

他方、の算出には全正教会がユリウス暦を使用するため、復活祭およびそれに伴う?は全正教会(フィンランド正教会を除く)が一致して祝っている。

日本におけるグレゴリオ暦導入[]

日本では、明治5年()に、従来のを廃して翌年から太陽暦を採用することが布告された。この「」(明治5年第337号、)では、「來ル十二月三日ヲ以テ明治六年一月一日ト被定候事」として、グレゴリオ暦1月1日に当たる明治5年12月3日を明治6年1月1日とすることなどを定めた。そのため明治5年まで使用されていたはとなった(明治改暦明治の改暦)。

この布告は年も押し詰まった同年(1872年12月9日)に公布されたため、社会的な混乱を来した。暦の販売権をもつ弘暦者(明治5年にはが結成された)は、例年10月1日に翌年の暦の販売を始めることとしており、この年もすでに翌年の暦が発売されていた。急な改暦により従来の暦は返本され、また急遽新しい暦を作ることになり、弘暦者は甚大な損害を蒙ることになった。一方、は、太陽暦改暦の決定を聞くと直ちに『』を著して改暦の正当性を論じた。太陽暦施行と同時の(明治6年)1月1日付けで蔵版で刊行されたこの書は大いに売れて、内務官僚のに宛てた福澤の書簡((明治12年)3月4日付)には、この出来事を回想して「忽ち10万部が売れた」と記している

これほど急な新暦導入は、当時であったの回顧録『大隈伯昔日譚』によれば、政府の財政状況が逼迫していたことによる。すなわち、旧暦のままでは明治6年はがあるため13か月となる。すると、月給制に移行したばかりのへの報酬を1年間に13回支給しなければならない。これに対して、新暦を導入してしまえば閏月はなくなり12か月分の支給ですむ。また、明治5年も12月が2日しかないので、11か月分しか給料を支給せずに済ますことができる。さらに、当時は1、6のつく日を休業とする習わしがあり、これになどの休業を加えると年間の約4割は休業日となる計算である。新暦導入を機ににあらためることで、休業日を年間50日余に減らすことができる

しかし、施行まで1か月に満たない期間の中で慌てて布告されたためか、この布告には置閏法に不備があった。その不備とは、グレゴリオ暦の重要な要素である、「西暦の年数が100で割り切れ、400で割り切れない年を閏年としない」旨の規定が欠落していたことである。このままでは解釈次第では、導入された新しい太陽暦はグレゴリオ暦ではなく、「ユリウス暦と同じ閏年の置き方を採用した日本独自の暦」ともされてしまう。また、同布告の前文にある文面もおかしく、グレゴリオ暦で実際に1日の誤差が蓄積されるのに要する年数は約3200年であるにもかかわらず、「七千年ノ後僅ニ一日ノ差ヲ生スルニ過キス」としていた。これは、起草者が参考にした天文書『遠西観象図説』の誤りと考えられている。

そこで1898年(明治31年)に、改めて勅令「」(明治31年第90号)を出して、グレゴリオ暦に合わせた閏年に関する調整を定めた。

閏年ニ關スル件(明治31年勅令第90号)
神武天皇即位紀元年數ノ四ヲ以テ整除シ得ヘキ年ヲ閏年トス但シ紀元年數ヨリ六百六十ヲ減シテ百ヲ以テ整除シ得ヘキモノノ中更ニ四ヲ以テ商ヲ整除シ得サル年ハ平年トス

この勅令では、(皇紀)を用いて閏年と平年とを求めているが、西暦を用いたグレゴリオ暦の採用と事実上違いはない(260を減算すればよいところを660としている点で、グレゴリオ暦そのものを参照していると解釈できる)。この置閏法の誤りを修正する勅令が公布されたときには、日本で太陽暦を導入してから初めての「紀元年數ヨリ六百六十ヲ減シテ百ヲ以テ整除シ得ヘキモノノ中更ニ四ヲ以テ商ヲ整除シ得サル年」である皇紀2560年すなわち1900年(明治33年)は、1年半後に迫っていた。

グレゴリオ暦導入の経緯[]

国立天文台暦計算室の暦Wikiの「明治以降の編暦」の記事も参照のこと。

    各国のグレゴリオ暦導入年月日[]

      脚注[]

      []

      関連項目[]

        外部リンク[]