昔のことをつべこべ言っても仕方がないけれど、弟と進路の話をしていて、勉強したいこともよくわからないのに、というかもはや、勉強したいかも分からなかったのに、大学にいったのってそもそも間違いだったのだろうなあと思いはじめている。4年間を充実させたかったら、きっと目的意識ってすごく大事だと思うから。じゃあ、レイタースペシャリゼーションを真っ向から否定する?うーん。そもそも、これって、「勉強したいことがわからない」「勉強したいか分からない」ということに対して行われてるものなのかな。問題意識があることが前提だなんじゃないのかな。勉強したいことが前提なんじゃないかな。そうじゃなくっても、少なくとも目的を見つけられることが前提だし、やっぱり勉強じゃない!違ったという人に取っては手遅れだよね。(それぐらいは自分で決めて下さいってことだよね)でも、高校生に何が勉強したいかなんてわかるかな?分かるって問題じゃない?決めるってだけ? ハイにいたからだけど、高校生が、大学に行かないって選択肢が選べたかな? 高校生は、自分の人生を選び取る自信と判断力をもっているのかな? わたしはもっていなかったんだよね。 子供はいったいどこから大人なんだろう。大人はどこまで子供の人生をサポートするべきなんだろう。それは成長と関わりの度合い両方の問題で。 わたしが中学校で、勉強を頑張ったときには、歩みやすいレールは決まったし、ハイに入ったら、ますますそれは強固なものになった。周りにながされるってなんて怖いんだろう。恐ろしいんだろう。それはいとも簡単で容易で陥りやすすぎる罠なのだ。そこで、優越してしまったら、それはますます抜けるのが難しいものだ。浮き輪で川に浮いてるようなものだ。その流れと別の方向にいくのはすごく難しいし、決心がいる。岸についたらそこからは、自分の足で歩かなければならないのだから。生きるのってなんでかほんと難しいと感じるのは私だけか? ドイツ人の友達は、何を勉強したらいいかなんて分からなかったから、本屋さんで働いていて、いまは、ワーキングホリデーにいってる。これをしってるから、ますますそういうことを考えてしまう。それと、こんなふうにわたしが悶々とし続けるのは、「もう1つの人生」が頭にいつも有るからだと思う。 クリエイティブなことを勉強してみたい。やっぱり。イラストやデザインや。それは高校生の頃から本当はずっと思ってること。でも自信がないから選びとれなかったこと。 でもわからない。それは夢を見ているだけなのかもしれない。やってみたらほんとうは思っていたものと違うかもしれない。 でも、そんなことは何に対してもいえることだ。これだけは言えるのは、わたしの今の状況は、やりたいと思ってることさえもやってないということなのだ。 一方で、やりたいことは、そればっかりじゃない。大学にいたなら、私は文学を勉強してみたい。喫茶店も開いてみたい。情報系の勉強もしてみたいし。写真の勉強もしたい。 やりたいことはいっぱいあるし、どれが一番というのは、わからない。 材料が全然ないから考えられない。 わたしは、いま、とりそこねてしまった大学前に考えるべきだった、そして、挑戦するべきだった時間がほしい。考えたらわかるのかわからないけど。このまま、川の流れに流れているのはまずい。とりあえず、岸にはおりたい。時間を止めたい。ひとまず。そうじゃなかったら、もうなかったことにしたいなにもかも。最近行き着くところはいつもそれだ。まだ間に合うと思いますか? これは、意味の有ることだと思いますか?
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