5月の緑がうつくしくて、7年前の5月の記憶がフワッと意識に上がってきた。






2011年5月。



まだ東京都の教師をしていた頃で、メンタル最悪の時期だった。


忙しさから睡眠障害になり、心身共にボロボロ。



それでも私の中に「教師を辞める」という選択肢はなかった。



教師は絶対辞めたくない、でも職場には行けない。


そんな思いに取りつかれ、早朝、寝間着のままで外に出た。



多分、人はこういう心理状態の時に、駅のホームにいて電車が来たら吸い込まれてしまうのだろう。



幸い家の近くに歩いて行ける駅はなかった。




外に出たものの、行き場がなく向かったのは少し離れた場所にある公園。



早朝なので人はほとんどいなかった。



何もすることがないので座ってボーッとしていた。



考えるのに疲れ、何も考えなかった。





どれくらい時間が経ったのだろう。



フッと、ある言葉が降りてきた。




「Let it be.」




言葉として聞こえた訳ではなかったけれど、翻訳するならこんな言葉。



5月の朝の光が、
欅の葉の緑と葉ずれの音が、
やわらかくひんやりした風が、
そういう言葉として私に伝わってきた。




そうしたら、自然に、


「死ぬぐらいなら、何をしたっていい。」


そう思えてきた。




その後、病休中に沖縄旅行に行き、

何も考えず退職を決め、

舞い込んで来たご縁のままに滋賀に移住し、

現在に至る。







心身のエネルギーが底をついた時、

人は人に会えなくなる。


どんなに優しい言葉をかけてくれる人であっても、しんどくて会えない。


そんな時、自然や植物は、ただそこに
「在る」。


なんのjudgementもなく。


その存在に、救われる。




どうして食育とか、edible yardとか、やりたいと言い続けているのか自分でもわからないでいた。



これだったんだ。


自然という存在。


植物という存在。


そこにつながっていれば、生きていける。



その確信が、「まなぶくらす」の活動の根底にある。


「自然は大切」なんて言葉はいらない。



ただ、今を生きる子どもたちには(もちろん大人も)自然や植物とつながる感覚を持っておいて欲しいと思う。


でもそれは私が教えるんじゃない。



それは、自分で感じて、つかむもの。



私にできることは、ただ場を整えるだけ。




《きしだめいこ/まなぶくらす》