■人生の選択は検証できない
レストランに行った時、すぐに注文が決まる人と、迷いに迷って時間をかける人がいる。
もちろん「どちらが良い」ということはないのだが、これを人生に置き換えて考えてみると、なかなか重要なテーマが見えてくるような気がする。
「すぐ注文が決まる」という人は、「自分はこういうのが好き」というのがだいたい決まっているケースが多いのではないだろうか。あるいは直感のままに動くことができる人なのかもしれない。「一番安いやつ!」という明確な基準で決めている場合もあるだろう。
ちなみに僕はどちらかと言うと、「迷いに迷って……」派である。できることなら、全てのメニューを把握した上で、一番美味しいものを選びたい。要するに欲深いのである。とはいえ、実際には財布と相談の上、一番安いのに落ち着くことが多いのだが……。もしも財布が許すならば、たとえば前回注文したA定食がすごく美味しかったとしても、2回目には、「実はB定食の方が美味しいかもしれない……」と、食べたことのないメニューを注文したくなるタイプである。
しかし、2回目に注文したB定食が、「すごく美味しかったA定食」を上回ることはあまりない。そのたびに「しまった〜!」と悔いることになる。仲の良い友人には、「またか!」とよく笑われたものだ。
これが行きつけの小さな定食屋なら問題ない。メニューもそんなに多くないので、何度も店に通い、全部のメニューを試した上で、「やっぱこれが一番好きだな!」というのを確定させることができる。ミッション・コンプリートである。
だが仮に、メニューの数が無限にあったらどうだろうか。
「これは美味い!最高だ!」と思うメニューに出会ったとしても、「いや、もっと最高なメニューがあるかもしれない……!」と、ひたすら新しいメニューに手を出していくことになるだろう。しかし一度「最高だ!」という料理に出会ったならば、それを超えるものに出会うことはかなりまれだろう。そうすると、「うーん、やっぱりアレには及ばんな……」というのを無限に繰り返すことになる。
無限にあるメニューに対して、もし自分の命も無限ならば、それらを無限に試すことができる。しかし残念ながらというか、幸いにしてというか、人間の命は有限である。どこかで終わりが来る。そのことをふまえた上で、「最高!」と思った料理を脇にやり、まだ食べたことのない新しいメニューに手を出し続けることは、その人に幸福感を与えてくれるだろうか。
それはそれで喜怒哀楽を満喫できて幸せな気もするし、やっぱり「最高!」と思えるものを何度も食べられることの方が幸せな気もする。これもまた正解のない問いである。
確か東京新聞のコラムだったと思うが、哲学者の内山節先生が、「全ての職業を経験することができない以上、どのような職業を選んだとしても、それは偶然である」ということを書いていた気がする。そう、世の中にはたくさんの職業があって、名前のついていないような仕事も含めれば、それこそ実質的に無限に近い数の職業があることになる。
そして僕たちは、それがどんなに好きな職業であったとしても、「全て」の中からそれを選んだわけではない。とすれば、その人は偶然見たり、知ったり、体験したものの中から、たまたま「最高だ!」と思えたものを選んだことになる。それが本当に「ベスト」かどうかは、検証しようがないのである。
■選択するのをやめる
その意味で、世界とはメニューが無限にある定食屋のようなもので、「全て」の中から選択することが実質的に不可能なことがたくさんある。職業はもちろん、住む場所もそうだし、家族やパートナーもそうだし、「生き方」自体がそうである。そして、こうした現実と折り合いをつける方法を、先人たちはずっと考えてきたのだと思う。
たとえば「メメント・モリ(死を想え)」という言葉はそのひとつだろう。いろんな解釈があるけれども、「人間はいつか必ず死ぬ有限な存在であり、だからこそ今を楽しもう」くらいの意味で使われることが多い。死という究極のネガティブから、今ここにある生をポジティブに照らし返すのである。いかなる選択をも超越して、今この時を肯定するのだ。
あるいは、『アルケミスト』という有名な小説にも登場する「マクトゥーブ」という言葉がある。これはアラビア語で「それはすでに書かれている」というような意味だ。世界の歴史も、人間の運命も、すでに神であるアラーの手によって書かれている。だから全ては必然であり、人間は未来を思い煩う必要はない、というわけだ。これもまた、人間の意識を「今」に留めてくれる言葉である。
仏教の曹洞宗に『修証義』という教典があり、その最初にはこう書かれている。「生を明らめ死を明らむるは仏家一大事の因縁なり」。生まれることとは何か、死ぬこととはどういうことか、これを明らかにすることが仏教者にとって最も大事なことだ、というのである。そしてそれらは「諦める」ことによって明らかになるのだ、とする解釈がある。生も、死も、あきらめる。ここには、「メメント・モリ」や「マクトゥーブ」に通じる思想があるように思われる。
どの教えも「今を生きよ」と僕たちに言う。それは逆に言えば、「人間がいかに今を生きられないか」ということを表してもいる。ちょっと油断すると、過去を悔いたり、未来に不安を感じたりしてしまうのが人間である。特に、未来は誰にもわからない。未来がここまでやって来た時には、それはすでに「今」なのであり、その意味で、未来は永久にやって来ない。無限の彼方にある。
その無限の未来には、無限の選択肢があるように思える。だがここまで述べてきたように、僕たちは「全て」の中から選択することはできない。にもかかわらず、常に「ベストな選択をしなければならない」という脅迫観念にかられてしまう。そんなことはできないのだ。検証のしようもない。ではどうするか。
「メメント・モリ」「マクトゥーブ」「あきらめる」という教えから引き出せるひとつの方法は、「選択するのをやめる」ということかもしれない。もちろん日々の生活の中で、何かを選ばなければならない場面はあるだろう。だがそれを「選択」として捉えるのではなく、「創造」として捉えてみる。人生を、複数の未来から選ぶものではなく、現在から生み出すものとして生きる。それは別の言い方をすれば「偶然を必然として生きる」ということになるかもしれない。
■個人としての主体、共同体としての主体
「メメント・モリ」「マクトゥーブ」「あきらめる」という言葉には、人間に死を意識させ、それを受け入れることを助ける働きがある。そのことによって「生の意味」が輪郭を持って立ち現れてくることがあるのかもしれないし、反対に「生に意味などなかった」と爽やかな悟りに至れる人もいるのかもしれない。それは僕にはわからない。ただひとつ言えるのは、現代の僕たちと、近代以前の人々とでは、この「死」に対する感覚がずいぶん違うだろうということである。
というのも、現代の僕たちは「個人」という主体を基盤にした社会の中で生きている。だからひとつの生は、基本的に「一人の人間の誕生から死まで」として完結する。だが近代以前の社会の主体は、個人ではなく共同体である。個人が死んでも共同体は生き続ける。ひとりの人間と共同体が、不可分に結び合う形で主体を形成しているとき、ひとりの人間の死は、僕たちが考える個人の死とはずいぶん違うものとして感じられていたはずだと思うのである。
たとえば文化人類学者の出口顯は、「多くの民俗社会には、孫に祖父母と同じ名前を与えたり、孫を祖父母の生まれ変わりとみなすといった、祖父母と孫という互隔世代の同一化が存在する」ということを指摘している(川田順造編『近親性交とそのタブー』)。あるいは、個人の生存よりも家(イエ)の存続が重視された時代があったことは、誰もが知るところだろう。そして個人が主体であることと、共同体が主体であることの最も大きな違いは、その生命の「有限性」と「無限性」の違いなのではないか。
言うまでもなく個人の生は有限である。しかし共同体は無限の生を持ち得る。共同体のメンバーとしての人間は有限な存在だが、それは共同体としての無限性、永遠性を内面化させた人間である。そういう人たちが、「メメント・モリ」「マクトゥーブ」「あきらめる」というような言葉を聞いたとき、彼らは現代の僕たちとは全く違った意味を、そこから引き出してくるような気がするのである。
■「現在する未来」としての他者
その感覚を僕らは全く理解できないのかといえば、そんなことはないと思う。たとえば、家族は最小の共同体と言われる。自分の命よりも子どもの命、孫の命の方が大事と思っている親、祖父母はいくらでもいる。そうした自他の境界があいまいな感覚を基盤にしながら、「メメント・モリ」を意識したとき、人はどのように生きたいと思うだろうか。
自分はいずれ死ぬ。だが自分の子どもは、孫は、自分よりもずっと長く生きることになるだろう。そうだとしたら、彼らが少しでも楽に生きられるように、今のうちにできることをしておこう……。そんな風に思うかもしれない。もちろん人それぞれだろうが、その行為の対象は、自己よりもむしろ他者に向けられやすいはずである。なぜなら共同体内においては、他者と自己は共にひとつの主体を形成しているからである。そしてその主体は、自分の死後も生き続けるのである。
そしてその行為の対象としての子どもや孫は、共同体の〝未来〟そのものである。それは、個人が思い描く無限の彼方の未来、抽象的な未来、永久にやって来ない未来ではない。ここでの子どもや孫は、今ここにいる、有限の、具体的な、選択の余地のない、絶対的な存在としての〝未来〟である。別の言い方をすれば、それは「現在する未来」であり、その時、現在と未来は併存しているのである。
■「現在する過去」としての神話
主体が個人ではなく、共同体として無限性、永遠性を持つことは、主体としての認識のレベルを大きく変えることになる。たとえばこういうことである。200年周期で発生する巨大地震があるとしよう。この周期を、一人の人間の寿命(たとえば80年)の中で捉えることは不可能である。同じ場所に住んでいたとしても、地震の被害に遭う人もいれば、遭わない人もいる。そうした記録を誰かが残したとしても、それを読む人がいなければ、その記録はないも同然である。
しかし共同体は、1000年単位で生き続けることもある。そのような共同体は、ひとつの主体として、巨大地震が発生する200年の周期を認識する可能性を持っている。それはたとえば「神話」という形で、である。そこでは、地震は大地の聖霊の怒りや、巨大な怪物のような比喩として描かれるかもしれない。いずれにせよ、「このような大変なことが起こった」ということが語り継がれるのである。
ではその地震が発生する「200年の周期」は、どのようにして把握されるのだろうか。これはおそらく期間としての200年として把握されるというよりも、地震が発生する「兆候」として把握されるのではないだろうか。現代でも、東日本大震災の直前に、「変わった形の雲が現れた」とか、「大量のクジラが浜に打ち上げられた」とか、「広い範囲で謎の異臭がした」などという報告があったそうだ。そのような「兆候」は、きっと多くの人によって語られ、神話や物語の1ページに刻まれるのではないだろうか。そしてそうした兆候について、「何代前の先祖が同じ経験をしたらしい」ということも語られるかもしれない。そうすれば、だいたいどれくらいの周期でその出来事が起こるのかを推測できるようになるかもしれない。
このような神話は、繰り返される過去として、循環する時間意識を形成する。そこでは、神話は言わば「現在する過去」である。そして循環する時間意識の中では、それは同時に「現在する未来」でもある。念のために付け加えておけば、神話だけでなく他者もまた、「現在する未来」でもあり「現在する過去」でもあり得る。たとえば先に述べたように、親から見た子どもは、共同体の〝未来〟そのものとしての「現在する未来」である。たがその子どもは同時に、親の過去の再現でもある。その時の子どもは「現在する過去」として認識され得るはずである。このようにして、共同体の時間は、円環を描く永遠の運動として捉えられるのである。
■有限の鍵盤と無限のメロディー
そもそも僕がこんなことを書き始めたのは、将棋の藤井聡太氏のニュースを見たことがきっかけだった。高校生にして二冠を達成し、年間で4500万円もの賞金を獲得したというニュースである。「そこから何でこんな話になるんだよ」と思われるかもしれないし、僕もちょっとそう思っているだが、とにかく僕がそのニュースを見て思ったのは、「藤井さんは将棋が本当に好きなんだな」ということだった。
というのも、まだ高校生なら何にでもなれる可能性がある、つまり、それこそ無限の選択肢があるわけである。では藤井さんは、その無限の選択肢の中から将棋を選んだのかと言えば、きっとそうではないだろう。そこに選択などなかったのではないか。将棋が好きで、もっと強くなりたい。そう思って没頭しているだけで、それは決して他の職業と比較して選んだ道ではないような気がする。
などと書きながら、藤井さんが何かのインタビューで「いや、将来の職業はすごく悩んで、職業一覧とか読み漁って、やっぱり将棋が一番向いてるかな、と思って決めました」とか言ってたらすみません。というか、ぜひ教えてください(笑)。そういう意味ではイチロー的な生き方に似ている気もするけれども、僕は別にそういう生き方を推奨しているわけではない。そうではなく、藤井さんは「これ最高!めっちゃ楽しい!」というものに出会ったんだな、と思ったのである。
藤井さんにこんなことを言う人はいないと思うけれども、「ほかにもいろんな世界があるのに、どうせそういうのは見ずに決めちゃったんでしょ」という見方だったできないことはないはずである。でもそれに対しては、そもそも「全て」の中から選ぶことなんて不可能でしょう、ということが言える。「もっと楽しいことがあるはずだ!」という未来への意識が、「これすごく楽しい!」という現在の喜びを窒息させてしまうことが往々にしてあるような気がする。
将棋というひとつのカテゴリーを極めようとすることは、無限の世界に、有限の枠を導入することでもある。それはいい意味で、小さな定食屋のメニューをミッション・コンプリートしようとするようなものだろう。メニューの数は限られているかもしれないが、だからこそ、一つひとつのメニューの深さを追求することができる。店の大将と親しくなれるのも、同じ店に通う人間の特権である。「全てのメニューを把握した上で、一番美味しいものを選びたい」という指向が、将棋では、考え抜かれた一手を導くことにつながるだろう。
「海の上のピアニスト」という映画の中に、次のような意味のセリフが出てくる。「鍵盤は有限だからこそ、無限のメロディーを生みだすことができる」。確かに鍵盤の長さが無限にあったら、ピアニストは途方に暮れるだろう。だが彼はやがて眼の前にある鍵盤を弾き始め、自分の手の届く範囲の鍵盤だけで、素晴らしい演奏を聴かせてくれるのである。