ほうれん草を育てながら哲学してみた(13)「生長はあざなえる縄のごとし」 | 杉原学の哲学ブログ「独唱しながら読書しろ!」

9月29日に種を植えたほうれん草。

 

ようやくちょっと「ほうれん草っぽい佇まい」になってきた気がする。

 

 

 

たぶんウチのはかなり生長が遅い方だと思う。

 

というのも、ウチはベランダがなく、プランターをずっと外に出しているわけにはいかない。

 

それでも窓が南側にあれば、ずっとそこに置いておけば日が当たるのだが、ウチは残念ながら南側には窓がない。

 

朝になったら東側の窓のカーテンを開けて、プランターを窓際に持っていく。午後になったら、今度はそのプランターを西側の窓際に移動させる。これを毎日やっているのだ。正直、めんどくさい(笑)。

 

しかもそこにはいろんな形でタイムラグが発生するので、日が当たる時間はどうしても少なくなる。ほうれん草には申し訳ないが、これがウチで育つ者の宿命なのだ。カンベンしてくれい……。

 

それにしても、ほうれん草の生長にはいちいち一喜一憂させられる。というか、正解だと思っていたやり方が、あまりうまくいかなかったり、かと思えば、やっぱりそれでよかったんだ、ということが後でわかったりする。

 

土を固めてしまったせいで発芽が遅かったほうれん草は、今では元気に大きく育っている。逆に、速くたくさん発芽した方のプランターは、その多くが途中で萎れてしまって、結局生長も遅い。これは僕が下手な間引きをしてしまったせいかもしれないが。

 

でももしかすると、これを食べる段階になると、速く大きく育った方はそんなに美味しくなくて、育つのが遅かった小さいやつの方が美味しい、ということになるかもしれない。

 

さらには、それを食べた後の栄養価に関しては、味のいいやつよりも、味がイマイチだった方が高い、ということもあるかもしれない。

 

このように、ほうれん草の評価は、その生長段階や、食べられる段階などによってどんどん変わっていってしまう。まさに「あざなえる縄のごとし」である。

 

もちろんその評価を勝手に決めているのは人間であって、当のほうれん草にとっては知ったことではないだろう。「あざなえる縄のごとし」なのは、ほうれん草でもなく、幸・不幸でもなく、人間の心にほかならない。

 

そう言えば、DNAというのは二重らせん構造になっているという。まさに「あざなえる縄」構造である。これが実は、DNAを持つあらゆる生命の宿命を表しているとしたら、ちょっと面白いではないか。

 

ちなみにDNAは、動物だけでなく植物も二重らせん構造らしい。とすれば、植物も自分の一生の中で、「禍福はあざなえる縄のごとしだなあ」とか、「人間万事塞翁が馬って人間は言うけど、植物も万事塞翁が馬なんだよなー」とか思うことがあるのだろうか。

 

まあそもそも植物に意識があったとして、そこに「自分」とか「運命」のような概念があるとは思えないが、でも何かを感じている可能性は否定できないだろう。植物に音楽を聴かせると生長の仕方が違うのは有名な話だし、あるキノコ農家さんは、「明日は忙しくて収穫できないから、大きくなるのは明後日まで待って!」とキノコに言うと、キノコは本当に待ってくれると言っていた。

 

いずれにせよ、人間の人生にもこういう「らせん構造」みたいなところがあって、いいと思っていたことが悪いことを引き起こしたり、残念に思った出来事が幸福を引き寄せたりする。それは結局、人間の心が生み出していることであり、要するに人間の心がらせん構造になっているのかもしれない。

 

そんなことを言っている間に、またプランターを西側の窓に移動させなければならない。この面倒くささが、収穫の喜びを倍増させてくれることを願いつつ、今日はひとまずこんなところで。