ほうれん草を育てながら哲学してみた(11)「有り合わせで生きる」 | 杉原学の哲学ブログ「独唱しながら読書しろ!」

きのう、ある絵はんこ作家さんのお店に行ってきた。その方はチェコに縁があって、チェコの風景やモノなどの絵はんこも作っている。僕がそれらを見ながら、チェコって何でもオシャレというか、ちゃんとデザインされてますよね、みたいなことを言うと、「それは古いものをちゃんと残しているからかも」という話をされた。僕の記憶なので確かではないけれど、「昔のデザインって、日本の昭和レトロみたいなのもそうですけど、なんかかわいいんですよね」ということをおっしゃっていた(ような気がする)。

確かに昔のデザインは何となく味があるというか、現代的なデザインにはない有機的なオシャレさ?のようなものがあるような気がする。でもそれは、デザインの質そのものが変わったのか、それとも単に、僕らが古いものに対して持つ郷愁のようなものが、昔のデザインをそう見せているだけなのか。その疑問を作家さんに投げかけてみると、面白い答えが返ってきた。

「有り合わせのもので作っていたからじゃないですか?」

確かに「昭和レトロ」と言われるような時代には、現代に比べれば手に入る素材や、デザインの知識なども限られていただろう。でもその限られた中で、なんとかいいものを作ろうと工夫する。その結果として、不思議な温かみや人間味、それに基づいた普遍的なデザイン性のようなものが生まれてきたのかもしれない。

これは僕にとって非常に腑に落ちる話だった。たとえば論文なんかも、その内容を論証するためにさまざまな文献を読み漁っていると、他人の思考の文脈に飲み込まれて、いつの間にか自分がもともと書きたかったことが分からなくなってしまうことがある。最も大切なものが抜け落ちてしまうのだ。それよりも、自分の中にある知識や手元にある限られた文献だけで一度書いてみる。そうすると、そこから内容が豊かに膨らんでいくことが多い。そのことを思い出したのだ。

「もっといい素材があるはずだ」と思って、それを自分の外に求めると、それは無限の探求になってしまう。そうするとそれだけで終わってしまって、最終的には浅いものしか生まれない、ということが往々にしてある気がする。それよりも、「今の自分」という有限性を深めていったほうが、結果的に普遍に到達しやすい、ということがあるのかもしれない。もちろんその過程で、新しい何かを獲得する必要性が生まれてくることもあるだろう。だが最初から新しい何かに目を向けると、それは結果的にキレイな素材で作ったハリボテみたいになってしまう気がする。そうではなく、自分がよく知る「有り合わせ」でできるだけの工夫をする方が、より人間的で、やっている方も「面白い」のではないか。

 

もちろんこれは、「今いる場所から動くべきではない」ということではない。そうではなく、自分の魂を大切にする、とでも言えばいいだろうか。だから心底「ここはイヤだ!」と思ったら、むしろ僕は全力でそこから離れるべきだと思う。その離れた先に、また新しい人生が続いていく。その自分の魂の声に従うことは、自分を深めていくことにつながっていると僕は思う。その声を黙殺できるのは、自分の外部に自分を委ねてしまっているからかもしれない。

さて、ここからようやくほうれん草の話になる(笑)。ほうれん草は植物だが、植物こそまさに「有り合わせで生きる」ことの天才だろう。「肥料が足りんから、ちょっとビバホームに調達しに行くか」というわけにはいかない。「おれプランターみたいな狭苦しいところで育ちたくねーよ!」と思っても、そこから引っ越すこともできない。やれることは、今ある環境を最大限に活かすことだけだ。そしてせっせと太陽に向かって伸びていこうとする。有限性をそのまま引き受けて、それを最大限に活かす生き方である。

それは多分、その方が楽しいからではないだろうか。だって、もしもほうれん草が「オレ、実は白菜になりたかったんだよな……」と思いながら生きていたら、きっと楽しくないと思う。矛盾するようだが人間の場合は、魂の声に従って逃げるのも、有限性を活かす生き方のひとつになる。足があるなら足を活かせばいい。天才数学者として知られる岡潔の有名な言葉がある。

「私は数学なんかをして人類にどういう利益があるのだと問う人に対しては、スミレはただスミレのように咲けばよいのであって、そのことが春の野にどのような影響があろうとなかろうと、スミレのあずかり知らないことだと答えて来た。私についていえば、ただ数学を学ぶ喜びを食べて生きているだけである」(『春宵十話』)

これはまさに有限性の全肯定ではないだろうか。ここでの「数学を学ぶ喜び」とは、無限の素材を探す冒険というよりは、数学というカテゴリーの中で、有限の自分を深めていくことに近いのではないか。だがそれを深めきった先には無限の世界が広がっていて、そこではあらゆるものがつながっている。岡潔はそう考えていたのではないか。

ほうれん草も、ほうれん草として生ききった先に、土に還り、もしかすると次は白菜としての生を得るかもしれない。僕も杉原として生まれてきたからには、杉原として生ききるしかない。まあ不満が全くないこともないが(笑)、山田さんの人生は山田さんが生きてくれているし、木村さんの人生は木村さんが生きてくれている。スピッツの名曲「楓」に、こんな歌詞がある。

「ああ 僕のままで どこまで届くだろう」

いい曲だ。これを我が家のほうれん草の気持ちに置き換えれば、きっとこうなるだろう。

「ああ プランターのままで どこまで育つだろう」