友人と喫茶店で話をしていると、話題が二拠点生活→移住→和歌山→熊野古道→高野山と転がっていき、やがて「空海は天才」という話に至った。
空海は平安時代の僧侶で、真言宗の開祖。弘法大師の名で知られる。
神童と呼ばれて育ち、やがて仏教に目覚め、厳しい修行の後に唐(中国)に渡った。そこで恵果和尚から密教の秘法を伝授され帰国。日本に密教を広めた。高野山を開き、数々の土木工事などで民衆を救った。
そんな空海の天才性について話している時、友人はふいにこう言った。
「しかし、その頃の時代の天才って、どんなことを言ったんでしょうね。現代の僕たちが言う天才とは、ちょっと違うかもしれないと思うんですけど」
確かにそうかもしれない。
天才にもいろいろあるけれど、僕らが思う典型的な天才のイメージは、たとえばアインシュタインとか、ノーベル賞を取るような人物ではないだろうか。でも空海の天才性というのは、ちょっと次元が違うような気がする。
もちろん記憶力、理解力、応用力などが抜群に優れていたことは容易に想像できる。でも彼の時代の天才性は、もっと目に見えないもの、論理を超越したものをつかむ能力だったのではないか、という気もする。もちろんそれは、現代の天才性との対比において、ということだが。
そこで僕がふと思ったのは、空海の天才性というのは、一を聞いて十を知るような能力、すなわち、「ということは」と気付ける力だったのではないか、ということである。
それは現代の天才にも言えることだが、かつてはもっと直感的で、神秘的な内容をも許容するものだった気がする。
そしてそれが天才と認められるためには、それを天才と認める一般の人々にも、そのような直感や神秘的なものを受け入れる感性がなければならない。
ここに近代的な天才性と、前近代的な天才性の違いが生まれてくる。
たとえば、ひとつの水滴が湖の上に落ちる。そこに広がる波紋を見て、「ということは」と、自然の法則の全てを知る、といった具合である。
もちろんこういう経験は多少なりとも誰にでもあるだろう。「ということは」と口にした時、それはその出来事と何かのつながりに気付いているのである。
ただ空海のような天才は、どのような些細な出来事からも、いちいち「ということは」と何かを発見し、学びを広め、深めていったのではないだろうか。
このような学びが可能なのは、あらゆるものはつながっているからである。全ては関係性と共にある。なにものともつながらない個別のものなど存在しない。
「全てはつながっている」
そしてこれこそがまさに、空海が学んだ「密教」の真理であった。
異国の地で密教を伝授された空海はとんでもない天才だが、その空海が持つ天才性と、空海が学んだ「仏教=密教」は、そもそも相性が良かったのかもしれない。