哲学とは「モノの見方」である | 杉原学の哲学ブログ「独唱しながら読書しろ!」

哲学とは何かと聞かれたら、いまの僕は「モノの見方」と答えるだろう。

 

「モノの見方」とは、世界との関係のありようである。

 

関係のありようが変われば、世界が変わる。

 

だから僕にとっては、哲学は世界を変えるものである。

 

哲学書というと難解なイメージがあるけれど、僕は気にせずいいかげんに読んでしまったらいいと思っている。

 

もちろん「哲学史に位置付けられるような学術的研究をやる」というのなら話は別だけど、そうでないなら、適当にページをめくりながら「へぇー」とか言ってればいいと思うのである。

 

誤読のオンパレードでかまわない。誤読もひとつの創造である。大事なのは、自分の読みが常に誤読の可能性を孕んでいることを知っていることである。

 

誤読の典型は、書かれている内容を、自分の文脈に合わせて歪曲してしまうことである。

 

これはどんなに気をつけていても、誰もが無意識にやっていることだろう。

 

それはそれでひとつの読み方ではあるけれど、その場合「この本、あんまり面白くなかったな」という感想になりがちである。

 

そこには自分が知っている価値観しか見出せないのだから。

 

だが、逆のパターンもある。

 

書かれている内容によって、自分の文脈のほうが変わってしまう場合である。

 

自分の文脈が変わるということは、生き方が変わることであり、世界が変わることである。

 

たった1行との出会いが、その人の過去を変え、未来を変えることがある。

 

それはもちろん哲学書に限らないけれど、やっぱり千年単位の風雪に耐えてきた思想は、それなりの深みを持っている。その思想をふまえて書かれた現代思想の書もまたしかりである。

 

1000年読み継がれてきた本は、1000年人間と仲良くやってきた本である。

 

じゃあ僕だって仲良くなれる可能性があるんじゃないか?

 

そう考えたら、ちょっとだけ哲学書のハードルが下がる気がする。

 

何より、ことあるごとに「アリストテレスはさぁ……」とか言いたいじゃないか。「プラトンに言わせれば……」とか、「それはもうヘーゲルが言ってたことで……」とか、「カントはそうは言わないと思うよ……」とか、言いたいじゃないか。

 

言いたい。けど、言われたくはない。

 

とすると、カント的には、やっぱり言っちゃダメなんだろう。

 

カント曰く、「汝の意志の格律がつねに普遍的立法の原理として妥当しえるように行為せよ」。

 

要するに、「他の人たちもみんなお前と同じように行動したとして、お前はそれでもええんか?」というわけである。

 

いやだ。言われたくない。だから、言いたいけど、言わない。

 

なんかカタコトみたいになってしまったけれど(笑)、そういう「モノの見方」ひとつで、友達に嫌われずに済むというご利益もある。

 

そう思いながらいまヘーゲルを少し勉強しているのだが、ちょっと何言ってるか分からない(笑)。