精子ゅん時代 | 杉原学の哲学ブログ「独唱しながら読書しろ!」

僕たちは虫の気持ちなんてわからない、と思っている。

 

わかろうとすることもあるけれど、全く別の生き物なのだから、きっとわかりようがない、と思っている。

 

バッタの気持ちはわからない。蚊の気持ちはわからない。ミミズの気持ちはわからない。

 

けれども、よくよく考えてみれば、僕たちはかつて精子だった。あのオタマジャクシみたいな、赤ん坊とは似ても似つかない姿だった。僕たちは自分の歴史をさかのぼるとき、そのスタートを赤ん坊の時に設定するけれど、本当はその前に、精子時代の自分がいたのだ。

 

あのオタマジャクシ姿の時の自分のことを考えると、とっても不思議な気持ちになる。アレが自分だったのだ。その時どんなことを感じていたのか。それとも何も感じていなかったのか。

 

少なくとも、何かを「考える」ということはなかっただろう。にもかかわらず、「何をするべきか」ということだけは、明確すぎるほど明確にわかっていたような気がする。それはきっと理屈ではなく、「そうせざるをえない衝動」によってそうするにすぎない。そしてそれが全てなのだ。

 

精子とは、いま僕らが「直感」とか「霊性」とか「生命性」などと呼んでいるものと一体になった身体のことなのかもしれない。彼らは間違うことがない。おのずからのままに生きて、おのずからのままに死んでいくだけだ。そういうルーツを持っていると思うと、人間はもっと自分を信頼できるようになる気がする。

 

いちいち理屈をくっつけないと、自分の直観を信頼できないということは、「時間」という観念に縛られているからなのかもしれない。あるいは「因果関係」に縛られていると言ってもいい。

 

しかし直観は、時間も因果も超越する。「未来」の「結果」のためではない、理屈を超えた「そうせざるをえない衝動」。もちろん、現実社会でそれをそのまま解放してしまうと、生きることが非常にむずかしくなるのだけれど(笑)。

 

哲学者のベルクソンは、『創造的進化』の中で次のように述べている。

 

「私どもを成員とする人類では直観はほぼ完全に知性の犠牲になっている」(ベルクソン著、真方敬道訳『創造的進化』岩波書店、1979年、315頁)

 

「直観は精神そのものだ、ある意味で生命そのものだ。〔中略〕その統一をあるがままに知るためには直観のなかに身をおいて、そこから知性に進むほかない。知性からはけっして直観に移れないであろう」(同316頁)

 

人間が社会の中で健やかに生きていくためには、知性と直観の両方の「居り合い」が求められる。ただし、ベルクソンが言うように、「知性からはけっして直観に移れない」。近年の瞑想ブームは、「直観のなかに身をおいて、そこから知性に進む」ための実践のひとつなのかもしれない。

 

それはもしかすると、「自分が精子だった時代」を思い出すことなのかもしれない。

 

僕はこの「自分が精子だった時代」のことを、「精子ゅん時代」と名づけたいと思う。

 

 

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