●教師も人の子
『学び合い』は優れていますが、完全ではありません。
特に教師は完全ではありません。
子ども達が本当の力を出すと、腰を抜かすほどのことを実現します。
とても自分一人では太刀打ちできないと教師は自覚します。
その中で、今まで抱え込んでいたことを子ども達に任せるようになります。
そうするとさらに子ども達は実力を発揮します。
そうすることによって子どもをさらに信頼し、任せます。
しかし、それが行き過ぎると、信頼が放任に変質してしまいます。
『学び合い』では教師は何もやっていないようにはためからは見えます。
なぜなら、授業中で話す時間はごくわずかで、ニコニコと子どもをからかいながらウロウロしているだけのように見えます。
しかし、一見そう見えますが、実は教師は仕事を四六時中やっているのです。
他人と関わり合って問題を解決し、その繰り返しの中で関係を創り上げるというのは、人間がサルに近い存在だったころから、いや、もっと過去の時代からやっていたことです。
これに関しては、特段、教師がやるべき事はありません。
「静かにしなさい」、「座りなさい」と叱らなければ、子どもは自然とやります。
しかし、二つのことは教師がしっかり押さえねばなりません。
それは、「何を勉強するか」です。
これがなければ教育ではなく、遊びになってしまいます。
教師は何を勉強するかを指導要領に則って定め、子どもに示さなければなりません。
そして、テストでちゃんと評価します。
これは大抵の教師はちゃんとやります。
しかし、もう一つの「みんなの徹底」は怠りがちです。
サルに近い存在だった頃から、人は他の人と関わり合って問題を解決していました。
しかし、その関わり合った人の広がりは必ずしも広くありません。
好きなもの同士、気があったもの同士に限られます。
子どもが「みんな○○をもっているから買って」と言ったときの「みんな」が二三人であることは多くの保護者が気付いていると思います。
子ども達の「みんな」とは、その程度の広がりしかありません。
しかし、『学び合い』では、「みんな」を強く教師は求めます。
その「みんな」とは、気の合わない子ども、特別支援の子ども、様々な家庭環境の子ども・・・を一人もかけるこ
となく「みんな」です。
ところが『学び合い』が上手く動き出すと、何もしなくてもうまくいきそうな気になり、「みんな」を求めることが弱くなります。
人は易きに流れるものです。
教師が強く求めなければ、子ども達はすみやかに狭い「みんな」に逆戻りです。
そうなると、相対的に繋がりの弱い子が見捨てられます。
そして、一人を見捨てるようなクラスは、二人目を見捨て、三人目を見捨て・・・。
しかし、解決策は『学び合い』しかありません。即ち、再度「みんな」を求めるしかありません。
出典:ネットブック学び合い』クラスの保護者のために (著:西川純)