妻と食事に行った時のことである。
妻はメニューを見ながら「これも食べたい、あれも食べたい」と、散々オーダーを迷っていた。
妻がなかなか決められないのはいつもの風景なので、僕はお腹が空いているのを我慢して、スマホを見ながら気を紛らわせていた。
ようやく彼女が何を食べたいのか決まったようで、店員さんを呼んでオーダーする。
「やれやれ」っと思ったのも束の間、「やっぱこれにしよっと」と、もう一度店員を呼んでオーダーをやり直した。
こういうことは毎回のようにあって、一度決めたことを翻すのは僕の性格的になかなか我慢ができず、これまた毎回のように妻に小言を言ってしまう。
一度「これ」って決めたことは、よほどのことがない限り覆してはいけない。
たかが食事の注文で大げさかもしれないが、逆に食事の注文ですらきちんと決められないのなら、どんなことだって不退転の決意を持ってやり遂げることなんてできない・・・そう思うのである。
はい、お察しのとおり、僕は頑固者です。
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人工透析の治療を受けている患者が、これ以上の人口透析は望まないと、中止を申し出た。
医師は念書を取り、人工透析を中止した結果、その患者は亡くなってしまった。
ところが死の数日前、もう一度透析を受けようかなって呟いていたとのことだった。
医師や病院の対応に賛否があることは承知をしているが、「人工透析の中止=死」を分かっていながらそのような決断に至ったのは、家族ともよく話し合い、幾日も逡巡した上でのことであり、決して軽々しい判断ではないだろう。
人生には腹を括らなければならない決断が何度かあるが、今回のことはまさに自分の生命がかかっていたのだ。
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人間は生を与えられた時から、同時に死ぬ権利も与えられていると思う。
耐え難い苦痛や、生き続けることの辛さから解放される権利は、誰にも妨げられてはならないものだ。
「自死を考える人はもはや正常な判断能力が失われている。死は取り返しのつかないものであって、生きていればなんとかなることもあるかもしれないが、自死は全部それを放棄する。」
と言える人は、生き続けることができる強さを持った人だ。
僕が癌でなければ、僕だってそう言っていたに違いない。
でも癌になって分かったのは、簡単に諦めてしまう自分の弱さと、苦しみながら死ぬことの恐怖だった。
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僕はステージⅣのがん患者で、天寿を全うすることは現代の医学では難しいだろう。
仙豆のような薬でも開発されれば別だが、きっとベッドの上で終わることのない痛みに苦しみながら死んでいくことを覚悟している。
残された者は酷かもしれないが、ただ心臓を動かし続けるために本人しから分からない苦しみに耐えられる自信は僕にはない。
ヘタレは最後までヘタレで、そんな人間だっているのだ。
それならもう、起き上がれなくなってしまったら比較的早い時期にさっさと殺してほしい・・・そのように僕は遺言しておく。
そしてこれは決して覆さない。
自分が何を食べたいのかすら決められない妻には自分の死は託せない。
だから、誰にも迷惑をかけることがないように、意識が明瞭なうちにしっかりと自分の意志を表明しておきたい。
不必要に苦しむことのない死を、安心して迎えられるように。。。