我が病院のICUは広々とした部屋に6床配置され、ベッドとベッドの間はカーテンで仕切られていて患者同士が顔を合わせることはなかった。
バイタルは中央にあるナースの詰所で集中管理されている。
僕の隣の人…多分お年寄りだと思うのだが、しょっちゅう痰の吸引をされていた様子がうかがえた。

さて、母と妻が帰った後のことである。
左腕は術側、右腕は点滴をしていて動かすことができないため、自分で体を起こすことも寝返りを打つこともできず、さらに掛ふとんの重みが加わって腰が折れるかと思うほど痛くなってきた。
少しでも体の重点をずらそうと­、足の裏にフットポンプが付いているにも関わらず膝を立ててみたり、体を横にひねったりしてなんとか体位を変えようと必死だった。

手術の前の晩から絶食、手術当日の朝から絶飲だったが不思議と空腹は感じなかったが、喉は渇いて仕方がなかった。
うがいならOKとのことだったので楽のみとトレイを持ってきてもらい、看護師に助けてもらいながら何度かうがいをさせてもらった。
楽のみで水を含ませてもらうなど初めての経験で、ほんの数時間前までは健常者と何も変わらなかったのに、
(僕はいよいよホントに病人になってしまったのか)
と、寂しさを感じた。

またどうも布団の下でものすごく汗をかいていると思ったら、39度近くまで発熱していたようだ。
自分で布団をはねのけることができなくて下半身がサウナ状態になっていたのだが、気の利く看護師がベッドの両側の柵に掛け布団をかけて体から浮かせてくれたので、下半身の風通しが大変よくなった。
今までは風邪を引いたときくらいしか発熱の経験がなかった僕は、悪寒や関節痛を伴わない発熱に不思議な感じがした。高熱ではあったが苦しさを感じるようなことはなく、気がつかないうちに下がっていたと思う。
今から考えるともっとナースに助けてもらったら良かったと思うのだが、なんせ新人の病人なので遠慮があった。

ICUの中はとても明るかった。
病棟だと21時に消灯していたのだが、ICUはなぜか23時くらいまで明々と照明が点いていた。
定期的に膨らんだりしぼんだりする足裏のフットポンプ、お隣さんの痰を吸引する音、39度近い発熱と腰の痛み、そして明る過ぎる照明のおかげで、ICUにいる間はほとんど眠ることができなかった。
テレビもスマホも雑誌もなく、ベッドの上で見動きすることができない状態での朝までの時間はとてつもなく長く感じ、一刻も早くICUから出られるよう祈っていた。

そしてようやく迎えた次の日の朝。
看護師が「採血をしまーす」と言ってカーテンを開けた。

(朝一番から採血だなんて、勘弁してくれよー。)
と、たちまち暗澹たる気分になる。
若い看護師が採血の準備をした後、なぜか僕のベッドの周りをぐるぐる周って何かを考えこんでいる。
しばらくして先輩らしき看護師を呼ぶと、
「左腕が術側で、右腕は点滴しているのでどこから採血したらいいのか…足­の甲でもいいんですか?なんとか血管が取れそうなので。」と相談している。
「はぁー?足­の甲!?」
僕は絶句してしまった。

事態を飲み込めず放心したままの僕を尻目に、右足­の甲をペチペチ叩いて血管を見つけると、右足­の小指の下あたりにすっと注射針を刺した。
「うっわー、痛そうー!」
と二人の看護師がのたまう。
僕は半分やけくそになっていて、
「もうどうにでもしてくれ」
という心境だったが、それがよかったのか見た目ほどに痛みは感じなかった。

その後は朝食もなく、8時を過ぎても9時を過ぎても病棟に帰れる気配もなくそわそわしていたところ、看護師と一緒に研修医の山田が現れた。
朝、右足の甲から採った血液検査の結果が良かったので、もう病棟に帰ってもいいと言う。
看護師が研修医の山田に、(少し意地悪気に)
「バルーンはどうしますか?まだ一人で動けないようですけど」
研修医の山田は、自信なさげに、
「うーん、じゃ、つけたままでいきますか・・・。」

うっとおしくて仕方がなかった弾性スリーブとフットポンプをようやく外されたあと、手術室に入ってから丸24時間、ようやく上体を起こすことができた。
腰が一気に楽になり、あまりの幸福感で涙ぐむ思いだった。
が、尿道にバルーンが入ったまま腰をかけた状態は、膀胱に妙な圧迫感と男性器に不思議な違和感があった。
おしっこをしたいような・・・でも出ないようななんとも言えない不思議な感覚だ。
そしてそのまま車いすに乗せられて病棟へ向かう。

僕は男性器の違和感からまともに座れず、かっこ悪かったが右­足だけをピーンと伸ばした状態で車いすに乗っていた。
痛くはないのだがこの違和感がMAXに苦痛で、少し振動がするだけでも辛かったのだが、車いすは結構なスピードで病棟に向かう。
「ひーー」
車いすが揺れるたびに心の中で悲鳴をあげた。

病棟に着くと病棟の看護師さんが「おかえりなさい」と声をかけてくれた。
なんだが戦場から帰ってきた満身創痍の兵士にでもなったような気分だ。
自分のベッドに腰掛けてようやく一息つくことができたが、そう、尿道に入ったままのバルーンのことである。
担当看護師に苦痛を訴えると、
「あら、ICUで抜いてこなかったのね。じゃ、まずこれから抜いちゃいましょう」
と簡単に言う。
(研修医の山田よ、普通はICUで抜くもんじゃなかったのかよ)
と心の中で毒づいた。

ベッドに横になっていたので見ていたわけではないが、バルーンは「あっ」と思った瞬間に抜けていた。
ティッシュの箱からティッシュをさっと取るような感じで、何かが尿道を走り抜けた感覚はあったが、思ったよりは痛くなかった。
期待していたわけではないが、ナースの柔らかい手が性器に触れた感覚もなかった。
ところが…、やはり多少なりとも尿道が傷ついたのだろう。
2、3日はおしっこする時に猛烈な痛みがあった。