「僕は癌かもしれない」
そう母親に告げたのは2014年5月3日のことで、両親を連れて日帰りのバスツアーに参加したときのことだった。
4月30日の穿刺吸引細胞診で判定がつかず、同じその日に受けた針生検の結果を待っていたときのことだった。

 

兵庫県北部にある湯村温泉で足湯につかりながら母親にそういったところ、ふっと寂しそうな表情になって「大丈夫、大丈夫」と言っていた。
それはまるで僕に…と言うよりかは自分に言い聞かせているように思えたが、その時の母親の横顔が今でも忘れられない。
思い出すたびに心がぎゅっとなる。

5月7日に針生検の結果が出て、当時の主治医から癌の告知を受けた。
日記にはなぜか両親に報告した時のことを書いていなかったが、手術予定日の5月30日までに妻を伴わず、一人で実家に帰ったことを覚えている。
突然帰ってきた僕を訝しむ両親(母親は勘づいていただろうけど)に、場を和らげようと、
「実は離婚することになりまして…」
という冗談も白けてしまった中で、両親に癌が見つかったことを告白した。
親父は母親だけが知っていたことに少しムッとしていたようだが、湯村温泉の時はまだはっきりと分かっていなかったと釈明した。
「うちは癌家系ではないはずだけどなぁ」と、つぶやくように言う親父。
あとは事務的に入院や手術のことなどを話した。
僕が帰ったあとの両親の会話は知る由もないが、その後、僕と長年確執のあった親父が心配してしょっちゅう妻に連絡をしてきていたようだった。

 

親父や母親の世代の「癌」という言葉のインパクトは凄い。
テレビに出ている人が痩せたら、
「あの人痩せたわね。癌じゃないかしら?」
なんて言うのを子供の頃からよく聞いていた。
そんな両親だから、僕の手術が成功し、根治できるような癌であることを祈るくらいしかできなかっただろう。

 

残念ながら所属リンパ節を郭清したところ、僕が絶望するほどの微小転移が見つかったけど、縦郭をよく検査していればあの時にステージⅣを宣告されていたに違いない。
再発が確定するまでの3年という時間は、僕にとっては覚悟を決めるための時間だったが、両親にとっては束の間の安堵の時間だったのだ。