「まもあんのタイいろいろ語り」  まもあん本舗Blog -472ページ目

久しぶりのジャングルジムに時の流れを感じる

 何年ぶりか、夕刻の公園のベンチによっこいしょと座る。
 目の前のブランコで子供達が遊んでいる。
 よーく振られている。
 タイのブランコはあまり性能が良くないのだけど、ここのは日本風。
 気が付けば、子供は日本人だった。
 その奥には木製のジャングルジムなどがある。

 日が暮れ、あたりは暗くなる。
 さて、と腰を上げ、スカイトレインの駅の方へ。途中のジャングルジムで足が止まる。

 やってみようかな。

 ちょっとぶらりとぶら下がってみる。

 やば・・・・・

 重い・・・・・

 すぐにやめてします。

 バンコクに来て、太りすぎた。
 来た時は55キロ。今は80キロ前後・・・・

 あーーーーー。

 確かに時は経っている。

 まもあん 

「バンコクの片隅」は「世界の片隅」

 人生の中で「しまった」という瞬間がある。
 自分の落ち度で失敗をしてしまった時以外に辛いケース。
 「起きていることを知らなかった時」
 これほど「しまった」と思える瞬間はない。 

 新潟県中越地震の時がまさにそうだった。


 自宅にいるときはPCで世界のニュースを知ることができる。
 バンコクにいる環境として、日本を見近に感ずることほど、ホームシックという不安を抱えずに、タイでの日常生活を過ごせるものはない。

 新潟県中越地震の時、ぼくらは自宅を出た。
 相方のお母さんの家、そこにはりんちーさんが待っている。
 週末、全員の時間がそこに集結。集結なき週末は寂しい。

 土曜日の午後に自宅を出、日曜日の夜遅くに自宅に戻る。
 PCに向かい始め、メールやサイトやブログの確認をし、ニュースを見てみる。
 月曜日の深夜。
 そこにあったのは惨劇でした。

 この瞬間「しまった」と思う。

 知人がいるエリア。手も足も出ない瞬間だった。


 日本を離れ、海外にいると、日本のことや家族のことを自然に、意図的に切り離しする瞬間がある。まさにその状態は無重力状態の心地。重力が戻ったときに着地したその時の情報にあっと驚かされる。
 知人の結婚、家族の死、そして、災害。
 異国と日本のギャップを感じる瞬間ほど、「現実」を感じる瞬間はないかもしれない。


 ぼくらは、それ以降、情報を集め、ぼくらにできないことはないかと話し合う。
 「ひとまず」募金という手段しかなかった。
 日本にいないぼくらは手段が限られている。

 バンコクのメディアにて募金を呼びかけていた。
 そこに確認し、告知をしても問題ないことを知る。
 そして、自分達も参加することに。当たった宝くじをそのまま。
 
 これは「ひとまず」

 1度きりでは縁は切れないでしょう。 
 
 「バンコクの片隅」にいるぼくらは、「世界の片隅」に生きているのだから。

 まもあん
 

タイ北部の朝市の豆乳の味

 熱帯タイも乾季があります。
 この乾季、北部になると寒季となります。
 バンコクでは11月から1月にかけて乾季。この時期雨が降らないためか、屋外でビアガーデンが始まっています。熱気ある風が涼しい風に変わることは、体感的にはいいですね。
 
 さて、タイ北部。
 4月のメーホンソンの朝は肌から寒い。
 べッドの上にかかっているシーツではなかなか体温を取り戻せない。
 部屋と外の区切りは木の枠。その隙間から冷たい風が部屋の中の温度を下げている。
 起きてしばらくシーツに包まっているのなんて、いつぶりだろうか。

 ホテルの朝食を早めにすまして、朝市場へ。
 そこの屋台の1つの席に座り、温かい豆乳と揚げパンを頼む。
 豆乳をそのままのんだり、揚げパンを豆乳につけたりして時を過ごす。

 タイでは豆乳の普及率は高し。
 そして、日ごろなじみのない味なのに、おいしく感じる。
 ましてや、体感温度が下がった後の温かい豆乳のおいしいこと。

 バンコクでコンビニエンスにて豆乳製品を見ると、いつもこの味を思い出す自分がいたりした。

 まもあん

アンコールワットにて 歴史のエッセンスを感じる

 カンボジアのアンコールワットを目の前にして、「でかい」と思う。
 それが正直第1感想。
 その次がなかなか声として出てこない。
  
 初めて見た世界遺跡はアユタヤ遺跡か。そのピリオドにはピマーイ遺跡も見ている。
 次の機会、パノム・ルン遺跡とパノム・ワン遺跡も見ている。
 そして、アンコールワット。
 実はこの後にカオヴィラヴィハーン遺跡にも登っている。

 どの地にいっても感じること。
 今は「遺跡」
 でも当時には、栄えた街であり、王がいた聖なるエリアであり、戦場でもあった場所。
 今、自分が立っているこの場所で、息絶えた者もいるのだろうと、考える。

 遺跡は現代のぼくらに何を訴えているのか。
 何も訴えていないのか。

 雲1つない空。
 雨雲で覆われた空。
 草の香り。
 舞い上がる土の粒。
 
 物事には始まりあり終わりあり。
 目をつぶり、そこで感じるのは過去か、未来か。

 ビルとビルの狭間で生きているぼくらに必要な空気、空間、エッセンスなのでしょう。

 まもあん
 

「ビッグ・フィッシュ」的バンコクライフ

 ティム・バートン監督「ビッグ・フィッシュ」を観る。
 ぼくは「シザーハンズ」が大好きで、そこからウィノナ・ライダーとジョニー・ディップも大好きになったりしていた。「猿の惑星」という大掛かりな作品を世に出したりしているけど、やはり、「ビッグ・フィッシュ」や「シザーハンズ」に共通するようなどこか神秘的な話に引き込まれてしまう。

 「ビッグ・フィッシュ」はほら話ばかり話していた父親の病気が悪化したことから息子が次第に父親との心の距離を縮めていくストーリー。その中で父親の話す「ほら話」が展開されていきます。でもその話は生命力のある話として、息子が自分の子供に話しかけられていく。

 面白い話だと思いつつ、後半へ。
 クライマックス前、川に到着したシーンで、思わず、自分も驚くほど涙していた。
 そんな前兆もなかったのに、突然。

 正直、「オチ」は予想していた。そして予想通り。
 それを超える何かをこの作品がアピールしている。

 ぼくにはまだ子供がいない。正確には一緒に暮らしている相手はいるけど、結婚前、そして子供がいない。
 もし、ぼくに子供がいたら、夜な夜な寝る前に「お父さんの話」を語るのだろうか。

 でもぼくが語る話はこんな話。

「交差点で象を追い抜いた」
「象の首に”馬”乗りになり、それからもう1頭の象の首へ飛び移った」
「飛んできた野菜炒めを受け取った」
「森の山奥で国境線なき国境をまたがった」
「火事のなか飛び込んで”日本人の方いませんか?火事ですよ”と叫んだ」


 果たしてこんな話を信じてくれるのだろうか。

 そして、ぼくの父親はぼくに何を語っていたのだろうと、思い出そうとする。
 異国の地にて。

 まもあん