【京都太秦】卵・小麦・乳を使わない料理教室「コトコト・きっちん」の八幡信子です
 
はじめましての方、
いつも、ご訪問くださっている方
ご訪問ありがとうございます爆笑
 
ここで改めまして
自己紹介をさせて頂きたいと思います。
 
長文になりますが、
よろしければお付き合いくださいねウインク
 
 
 
八幡信子(やはた のぶこ)
京都生まれ、京都育ち。京都在住です。
旦那さん1人と娘が2人の4人家族です。

 

今まで保健師や看護師として働いていました。

特に白衣の天使に憧れがあったわけでもなく、

ただ手に職をつけたくて爆笑

看護短大に進学しました。

 

本当は大学進学したかったのですが、

当時は看護系の大学は

全国に数校しかなく、断念。

 

その後、ポツポツと

看護系大学が増えてきたので

病棟勤務を経て

大学に編入学し保健師の免許を取りました。

 

看護師の仕事はやりがいがあって

大好きですウインク

 

しかし、自分自身をすり減らして

働いている感覚がありました。

今でもそうですが。。。

 

患者さんの命を預かる

大切な仕事なのですから

それが当たり前なのかもしれません。

 

もしかしたらもっと優秀な看護職の方は

そんな感覚を持たずに働いておられるかも

しれませんけどねニコニコ

 

独身の時は仕事に100%情熱を注ぎました。

不器用なので結婚して子供が生まれたら

そうはいかないだろうな

そんな予感はありました。

 

結婚してすぐに授かった長女は、

卵・乳・小麦・大豆・米・ナッツ・魚類・甲殻類・南国系フルーツ・そば・ごま等に

強いアレルギーを示す子でした。

 

何を食べさせたらいいの・・・

私は何を食べたらいいの・・・

 

母乳育児で育てていましたので

厳格な除去食生活を母子ともに続けました。

 

当時は昔からのアレルゲン除去の指示を出す

医師と少しずつ食べ慣らす指示を出す医師がいて

治療法が混在していたことを後ほど知りました

 

 

 

 

当時の私の栄養源は

コメと野菜。

 

それでも長女の皮膚はひどい状態で、

常に痒がっていました。

 

しかし当時の主治医は

ステロイドは悪と言い切り

処方してくれませんでした。

 

寝付くまで1時間半、痒いところを

さすってかきむしらないようにする毎日でした。

 

そして 3時間の授乳の合間に

長女の食事だけ別に作るのは

ものすごく手間で大変でした。

 

そこで何とか長女が食べられる食材で

家族全員が美味しく食べられる料理を

作れないかと考えました。

 

夜な夜な家族が寝静まってから

レシピを検索する日々が続きます。

 

 同じように重度の

食物アレルギーを持つお子さんを

育てる親御さんのブログを読み漁り

同じ悩みに涙することもしばしば。

 

当時グルテンフリーという言葉は

出回ってませんでした。

 

自己流でアレルギーっ子のママさんが

作って公開してくださっている

米粉パンのレシピを必死で練習して

自己流で米粉パンを焼いていました。

 

 6歳の頃に大豆製品が食べられるようになり、

豆乳が使えるようになると料理の幅が

ぐんと広がるようになりました。

 

大豆が使えるようになると

ある程度は自分で手作りできるように

なりました。

 

しかし米粉の形成パンや、シュークリーム、

ソフトクリームなど

子どもが好んで食べるものを作れない

ジレンマを感じるようになりました

 

長女が食べられるものをお店で

買うことができないならば

全部自分で作れるようになりたい。

 

そんな思いが常にありました。

 

世の中のアレルギーっ子のお母さんは

みんなそんな風に思ってるんだと

勝手に思い込んでましたが

そうではない事に最近気づきました。

 

これって私が料理好きだからこそ

芽生えた思いなんですよねチュー

 

 

長女が小学校に入学してから、

給食のメニューそっくりに作る

除去食作りをしながらも

看護師としてパートの仕事を再開。

 
「なんで私だけがこんな目に」
 
当時変な被害者意識がありました。
今考えたら、そんな事考えるならば
手間かけて給食そっくりにお弁当を
作らなきゃいいじゃない!
ってわかるのですよグラサン
 
でも当時は給食は食育の一環だからと
それ以外の選択肢は考えられなかった。
 
生活にいっぱいいっぱいで
視野が狭かったのですよね。。。
 
そして孤独に作り続けるのは辛すぎるので
ブログを始めて除去給食作りを
発信し始めました。
 
始めは誰も訪問してくださる方が
いませんでしたが、
細々とアレルギーっ子の
ママさん達との縁が
つながることも出てきました。
 
そしてそんな時に主治医から提案された
臨床治験薬を使った急速法による牛乳が
飲めるようになるという治療。
 
木村先生が勧めてくださるならば
素晴らしい治療なのに違いない。
 
2週間に1度、大阪の病院まで行き、
大きな注射を2本打つ。
入院して大嫌いな牛乳を
飲み続ける日が続きました。
 
一時期200cc飲めるようになった牛乳。
市販のチョコレートを
食べることができましたラブ
 
しかし薬の効果が切れてからどんどん
飲めなくなり。
しかし医師は飲ませろと指示を出す。
アナフィラキシーを連続して起こし
何回救急搬送されたか。。。
 
結局、牛乳は飲めなくなり、
その原因はよくわからないで片付けられて
しまいました。
 
他の治験を受けた子は
飲めるようになっているのに。。。。
 
あんなに頑張って
長女はつらい思いをしたのに
何も効果がないなんて。。。
もう今は仕方ない事だったと思えますが。
 
保険は効かないので治療費は
新車が購入できるお値段支払いましたガーン
 
ここで食物アレルギーとの向き合い方が
私の中で変わったような気がします。
 
 
治らないならば、
現状と付き合って
生きていくしかない。
 
 
自分はどう生きたいのかも考え始めました。
模索する中でコーチングを受けました。
 
「信子さん、
貴女は起業すべきよ」
 
当時、フルタイムで企業の管理室で
保健師として働いていましたが、
契約社員だったので、いずれは社員として
働ける企業への転職は考えてはいましたが、
起業なんて考えた事はなかった私。
 
今の手持ちの資格で起業するのですか?
保健師、看護師、ケアマネージャー、
産業カウンセラー、キャリアコンサルタント?
 
確かに資格は複数持ってるから
何かはできそうだけど出来ないんじゃない??
どうしたらいいのかわかりませんでした。
 
そして後日のコーチングセッションにて。
 
「10年後はどうなってますか?」
 
私は迷わず
 
「アレルギー対応レストランを
世界規模で運営するオーナーになってる」
 
自分の言葉とは思えないものが
口から出てきて
思わず恥ずかしくて消去したいくらいでした。
 
でも、これ、本心だったのですね。。。
アレルギーが治らないならば。。。
これから長女の活動範囲が広がっていくと
私のお弁当をどこへでも持参するわけには
いきません。
 
どこでも安心してアレルギーでも食べられる
場所があれば、、、
 
誰か作ってくれないかな。
そんな思いは常にありましたので。
私が作りたいなんて思ってなかったですが爆笑
 
恐ろしく大きな目標も細かく分解して
コツコツ取り組めば達成できるかもしれない。
 
そう思ってまずは料理の勉強を始めてみよう。
マクロビの料理教室のインストラクターコースに
通い始めました。
 
そして、子どもお料理教室の
講師の認定資格を取得。
 
 
長女のアレルゲンを除去した料理教室を
待っていてくださった方が
申し込んでいただいたり、
遠方からお越しくださったり。
 
生徒さんと親御さんのお陰で
私の方が勇気付けられ、エネルギーを
いただけるレッスンを開かせて頂いています。
 
 
 
千里の道も一歩から。
まず最初の一歩を踏み出しました。
 
今まで自分が呼吸するように
当たり前のように作っていた料理が
皆さんのお役に立てるかもしれない。
 
やっと自分の天職はこれだ!と
自覚が芽生えた所ですが、
これからコツコツ
精進していきたいと思っています。
 
 
長文にお付き合いありがとうございますウインク
 
 
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本日も心身ともに健やかで愛溢れる一日を
過ごされますように。
最後までお付き合いありがとうございます^_^