中途障害になって31年、短いようです~ごく長いです。夫は事故った時に亡くなりました。
私は今でも一緒に連れてってくれればいいのに、全身麻痺の言語障害として生かしておくなんて恨みたい気持ちで50音図を使い話したり表現出来ない私は良くも悪くも笑いと泣くしかなかった。でも、二人の娘のために頑張って親が出来て良かったと思うけれど孫も3人増えて嬉しい反面、孫を抱けないまともにお喋りできない哀しい場面にいつもあっています。
事故後1年以上病院暮らしですが 字は書けないまともにお喋りできないのが記憶力が
凄くなっちゃって良いのか悪いのか頭脳が戻ってないので心に残すことが増えて
娘たちが苦労しているのを知らず自分勝手な(大変可哀想何親)でいた。
最後に病院はリハビリ専門で私はST(言語聴覚療法)は行かなくって良かったようでPT(運動療法)とOT(作業療法)に行った。
OTの先生が貸してくれたタイプライターを2台壊す程の力加減がわからないのずリハビリをしているうちに ワープロというのを探してくれてキーボードにカバーに穴をあけた物をかろうじて動く左手に棒を持ち練習した。字が書けると言うことは嬉しい。

先生は、ポエムを書いたらと言ったけど私はそんな詩人じゃないもんと先生が
お手本で横に置いてくれた絵本の文字を綴った。
いくらか言語がみんなに聞こえるようになって私は先生を先生と呼ばず○○君△△ちゃんと呼ぶようになったけれど、先生には聞こえるらしく間違いなく来てくれる。
PTでほふく前進(マットの上で)や段の上で四つん這いにさせられ私は全身麻痺の脊損になったので四つん這いのまま足を後ろに伸ばせと言われても下半身は全く言うことを聞かなかった。けれど麻痺してるのに左手が動き末端冷え性で足の指と手の指はものすごく冷たくても麻痺には関係鳴くOT・PTはやった。
そのリハビリ病院で1年4ヶ月いて、在宅医療となった。
退院する時OTの先生からワープロを用意してもらって、家に行ってからは1日2時間くらいワープロを打った。
多少頭脳が戻り娘の今後とか悩み始めた。
ベッド上では寝て電話をヘッドホンで聞けるようにして、辛うじて動く左手の指でダイヤルを押し、電話が来た時もこちらからする時もプライバシーを守れてお話出来た。
普段は区役所から送られてきた家政婦さんに面倒をみてもらってたけど、後は娘が学校へ行く前に妹が用意してくれた朝食を食べさせてくれ、帰ってからは夜中のトイレまで面倒をみてくれた。
それが辛く言語が通じないのに区役所の福祉課の人はちゃんと聞いてくれて施設を探してくれていた。