1組のカップルが駆け落ちをする。
男は消しがたい闇の気配を背負い
誰にも顔を見られたくないという思いが
頭まですっぽり被ったフード姿に如実に現れていた。
何かに追われているのか
仕切りに後ろを確認したり
ふいに足早になったり
見えない何かから逃げるように進む。
善人じゃなくてもいい。
まともになりたい。
熱い風呂に浸かって目を閉じた。
この旅館の裏にある寺には
自分を試す仏が祀られていると言う。
六つの仏の持ち物から二つの正解を選べた者は
真の善人なのだという。
くだらないと思った。
でも、仏でも神でも何でも良いから誰かに
善人だと認めて欲しかった。
そんな男の願いは女の家族には届かず
関係を絶つよう求めてくる。
男も必死に応えようとした。
善人になり、女に見合う男になる努力もした。
もう会わないよう冷たく当たることもあった。
それが女の人生にとって良いことだとも思った。
しかし女は生きていけなかった。
男が去ると酷く傷つき泣いて暴れ
そして心を閉ざし食を断った。
男はそれをずっと通りから見ていた。
それでも女が自ら立ち上がると信じていた。
月日が流れた。
しかし女が玄関を出ることはなかった。
毎朝毎晩同じ柄のカーテンが閉まったままだった。
閉まっていることが安否確認のように
男の毎日の習慣になっていた。
女の部屋のカーテンが開いた時には
驚きと恐れで男は女の家に走った。
予想外に男は迎え入れられた。
女の父親に女を連れて遠くで幸せになれと
当面の生活費と骨と皮になった女を託された。
お前のことは好きじゃない。
でも娘が選んだのはお前だ。
女は歩くのも簡単ではなかった。
ただ嬉しそうに何度も男の顔を撫でては泣いた。
女の体力が長く続かないことは容易に理解できた。
行けるところまで行こう。
バスを乗り継いでそれなりに遠くに来たつもりだ。
明日はどこへ行こう。
熱い湯に浸かりながら考えていた。
裏の寺には行ったか?
不意に声を掛けられ隣に陣取った男を見た。
女の父親だった。
家内はパニックになって警察に行くと騒いでいるよと苦笑した。
そして、ここはまだそんなに遠くないぞ?と諦め顔で笑った。
明日はもっと遠くへ行かなければ行けないと思った。
寺の仏の話は女の父親から聞いた。
善人であってくれ、そしたら俺も少しは楽になる。
そう言って風呂から出ていった。
夜、女に寺の話をした。
女も善人になれるよ、きっとと優しく笑った。
朝、女が寝ている間に男は寺に向かった。
寺にはいびつだが長くくねった石段が続き
朝早いせいか清らかな空気に包まれ
男も自分が清らかになっているように感じた。
案内板にしたがって進むと本堂脇の
小さい堂がそれだった。
中は暗く仏の両脇に灯された明かりだけがついていた。
仏を祀った祭壇には鉢が置かれ
中に金属製の丸みのある何を模したのか
男には分からないけど六つのモノが有った。
これか。ここから二つか。
ゴツゴツした手触りのもの、指輪のように指が入るように穴が空いたもの、いずれも大勢の手に触れて来て角が削れているようだった。
一つ一つ見てみたが、何を意味しているか
さっぱり分からなかった。
しばらくそれぞれを弄ったいたが
どれだけの時間を費やしても答えが出ると思わなかった。
仏を見上げたのか天を仰いだのか
男は二つを選び、手に取り鉢の隣にある葉の形をした木の皿に置き、残りを鉢に戻した。
そして長く目を伏した後、堂を後にした。