3.11という日
9年前の今日は忘れもしない東日本大震災当時私は小学6年生。卒業式の10日前でした。今日で9年と聞いてとても驚いた。私は昨日のことのように覚えている。あの日のことを書いてみようと思う。あの日は、6年生にとって給食が最後の日だった。だから、給食はサプライズ給食で、6年生だけ特別メニューになっていた。お世話になった先生方を教室に招待して楽しく食べた。そのあとは、卒業前にしては珍しい5時間目の授業があった。授業内容は卒業制作。自分のオルゴールを各々作成していた。私は、最後の仕上げで箱に蓋をつけてボンドで固定し後ろのロッカーに置いて乾かしていた。(次に学校に登校できたときには作品は床に落ちていて蓋が歪んでついてしまっていた。そして、無理やり剥がしたので蓋は割れてしまい、一生忘れられない卒業制作になった。今でも作品をみると思い出す。)楽しい時間だった。みんなあと少しでお別れなので、制作しながらワイワイ話していた。そしてあの時が来た。クラスメイトの地震だ!の声でみんなが揺れに気がついた。私は教室の前にいたので給食台という机の下に3人で頭を入れた。いつもと同じ地震だと誰もが思っていた。ちょっと揺れてすぐおさまる。だから、一緒に頭を入れた3人と笑ったりしていた。でも、それがすぐに変わった。すぐおさまると思っていた地震はだんだんと大きな揺れに変わって、揺れている音も大きくなって来た。時間もすごく長くて、これはただの地震ではないと思った。揺れからどのくらい経ったのか、地震がおさまてすぐに隣の教室から助けて!と叫び声が聞こえた。私のクラスの担任が飛んで行くと、隣の教室は卒業制作でクラスの大半が図工室に行っていて生徒数名だけが教室に残っていた。避難するときに隣の教室を見てみると、黒板には亀裂が入り、天井は落ちて来ていて、私のクラスはそんなことになっていなかったのでとても驚いた。廊下は電球が割れ落ちていて砂埃がたっていたのを覚えている。そこから急いで、校庭に避難した。校庭に集まってすぐにまた大きな揺れが来た。これはのちに茨城が震源で起きた地震だったということがわかった。校庭にある登り棒倒れるのではないあというほど揺れ、目の前の建物の窓ガラスは割れそうなぐらい音を立てて震えていた。私はこのとき、どこが震源なのかわかっていなかった。だから、ついに東京で大きな地震が来たのかと思っていた。母は東京に通勤していたのでもしかしたら…そんなことが頭に浮かんでとても怖くなったのを覚えている。そして、教頭先生からはあることが伝えられた。「ただいまの地震で屋上の給水タンクが破裂しました。」いや。なんでそんな怖いこと言う?私はそう思っていた。とりあえず、今の状況が話されたあとは保護者が迎えに来るのを待つために、今まで全学年で固まって座っていたのを各学年ごとに集まって座ることになった。他のクラスの6年生はお楽しみ会をしていたところもあり、なぜかトランプを持っている子もいた。こう言う事態なので先生たちも少しでも明るくなるようにと、トランプを許してくれていた。私も当初は友達と笑いながらお話ししたりしていたのだが、、、次第に怖さが強くなってきたのか、気がついたら手足が硬直していた。手がグーになったまま全く動かない。それに気がついた先生たちは必死に手をさすってくれていた。少しづつ手の硬直が取れて来たとき、保健の先生が寝る場所を作ってくれ、私は校庭の真ん中で横になった。寒さもあったのか次第に硬直はとけて来ていた。横になって少し経ったときに、家が会社になっている父が迎えに来てくれた。校庭の真ん中で寝ている私を見て驚いていた。帰るときに歩いたら足の筋肉が固まっていたせいかすごく痛かった。家に帰ると、高校を卒業して家にいた兄がいた。そして、テレビを見てすごい光景を目の当たりにした。東北は津波が来ると流れていた。そしてしばらくしたら、津波が到達した。人が流される。家が流される。そんなニュースがたくさん流れていた。母と都内に出ていた長男の安否が確認できた。2人は帰ってこれないので、会社に泊まると言う連絡も入って来た。生きていた。よかった。心から安心した瞬間だった。しかし、一緒に住んでいた祖母の行方がわからなくなっていた。どこに出かけたのかもわからない。連絡が取れたのは夜8時ごろだった。都内に友達と出かけていたが、なんとかタクシーに乗ることができて地元まで戻って来ていた。父と2人でタクシーを降りた場所まで車で迎えに行き無事に帰って来ることができた。この日はリビングで父と兄と並んで寝た。余震が続いていたため、テレビをずっとつけていた。その間もずっと東北の状況が伝えられていた。次の日のお昼頃、頑張って動かしてくれた東京メトロ。それに乗り、母と兄が帰って来た。やっと家族全員が揃って安心できた。こんなに詳しく覚えていることが他にあるかと考えたがやはりこの日のことに勝つくらいの記憶は他にない。それほどあの日のことは忘れられない。当時の私は津波の恐ろしさがよくわかっていなかった。しかし、年が経つにつれて当時の私と同い年の子が津波によって亡くなっていることを知り恐ろしさを改めて感じた。震源の場所が違えば私も生きていたのかわからない。家族だって失っていたかもしれない。今を生きていられるということに日々感謝しなければいけない。この日があったから私は家族や友達をもっと大切にして生きていこうと思えた。悲しすぎる日であることは間違いない。でも、この日を決して忘れずにこれからも生きていこうと思う。