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私の母は18年前の今日、亡くなりました。子宮頸がんでした。
子宮頸がんが転移し、最期は痛み止めの薬で朦朧としていました。
18年前の七夕の日、ずっと病室でつきっきりだった私と末妹に叔父(母の末弟)が『明日は付き添いを代わってやるからお前たちは一度家に戻って休みなさい』と申し出てくれ、その晩は末妹は病室で、私は病棟の端にあった談話スペースの長椅子で夜を過ごしました。
この時点で1ヶ月近く病室に詰めていた事になります。
朝から夜までを私が、夜になったら末妹が仕事を終えて病室に泊まる…そんな生活をしていました。
(この間妹弟は全く関与ナシ)
叔父の申し出を受け入れ、翌朝私たちは病院から帰宅の途につきました。そして帰宅しお風呂を沸かしていたら叔父からメールが。
『血圧が下がってきているから戻ってくれないか』と。
慌てて病院に戻ると、母の命はいまにも尽きようとしていました。叔父の連絡を受けた祖母と叔父(この人も母の弟)がベッドの脇を陣取りオロオロするだけでした。
母には弟ふたり、妹がひとりいるのですが付き添いも支払いなどの用事も全て子供たちにさせていました。
祖母にも弟妹にも頼りたくないようでした。
(自分の高校進学を断念し、看護学生として就職し弟妹の学費も負担し仕送りもしたが両親に全て使われてしまったとのことで母はそれを恨んでいるようでした)
あとは『その時』を待つだけ…というタイミングで祖母が騒ぎだしました。
薬を飲みたいが食事を済ませていないから飲めない!と。
その時叔父(くどいようだが末弟ね)が、俺が買ってくるよ、と言い私たち姉妹もそれについて病室を空けたのです。
祖母も上の叔父も、今考えればとんでもなく自己中です。
そして、買い物を済ませ病室に戻ると母は心臓マッサージを受けていました。
そして18年前の7月8日の今日、母はその生涯を終えました。5
享年55歳、誕生日まであと1週間でした。
祖母は後年、事あるごとに私たち姉妹に『親の死から背をそむけた馬鹿者』と罵りました。
…誰のせいだよ?
祖母があの時自分の服薬を優先させなければ、上の叔父がベッドの脇を占拠してなければ、私たちはお母さんとお別れができたのに。
最期の時だけ娘を、姉を、心配する自分に浸って、そんな自分に酔って…いまでも腸が煮えくり返る。、
母との別れは悲しく、寂しいものだけれど最期までそばで母の役に立てたと思っているので、後悔はしていません。
それでも、命日には思い出したいし、恋しく思いたい。
母は七夕の日の夜、鵲の橋を渡って父に逢えたのかしら。
父が亡くなった時、『お母さんは一生お父さんだけやからな』って言ってたから。
午後0時23分母の鼓動は止まりました。
2020年の今時分。
私は糖尿病性網膜症の手術を受けました。
当時は手術はその1回で終わると信じていました。
…結果、その後1年半で左目が2回右目が5回の手術を受けるハメになりました🤣
他にもレーザー治療や眼球に注射を打ったりする治療もありました。
現在は定期的な受診と点眼薬で様子を見ています。
見左目は失明状態、右目は緑内障で視野狭窄が起こり視力は矯正して0.2あるかないかぐらいです。
この4年の間にワンコたちも亡くなり、長らくペットロス状態でしたが少しでも見えているうちに…とあちゃさんをお迎えしたのです。
少しでもこの見えている状態を保ちながら、この子の為にがんばります。
もちろん、点字や白杖歩行も。