白鵬関の優勝インタビューの発言から、大久保利通が気になって追いかけ続けた今週。
とうとうすっきりする解答を見つけました。
「大久保利通」「大相撲」「明治帝」にこだわるから答えが見えなかったんです。キーワードから「大久保」「明治帝」を外し、ただ「明治」「大相撲」だけで検索すればよかったんです。

ヒットしたのは国立国会図書館のサイトでした。→こちら

結論からいえば、大久保や伊藤ら政治家が復権のために働いたかもしれません。でもそれは些末なことでしかないでしょう。それよりも逆境にまけずに継続して踏ん張った力士、親方、行司ら関係者、それを支えたタニマチの応援こそが相撲を復権させた第一の要因だったと思います。

それにしても江戸時代、あれだけスターとして庶民から喝采された力士は、断髪令裸体禁止令のおかげで時代遅れ犯罪者へ突き落とされることになりました。もしかすると”江戸期に庶民のヒーローだったお相撲さん”の立場は、”軍国主義で国民の英雄だった兵隊さん”と同じなのかもしれません。こないだまで庶民の憧れだったのに、時代が変われば「もうイラネー」。

「相撲不要論を黙らせるために消防別士組を組織して庶民の役に立ってもらおう」という新聞投書。もう”強い””逞しい”はいらないという時代に”強い””頼りがい”を看板にする団体をどう認めさせるか、どうしたら世論の逆風をひっくり返して相撲に市民権を持たせられるか。これは憲法9条後の自衛隊問題に似てるんでしょうね。作戦としては災害ボランティアに役立てて市民に認めてもらおう、みたいな。

この火事場の力仕事に力士を使うことを目的とした「消防別士組」明治9年に組織されると、次第に働きが認められ、明治11年「角觝並行司取締規則及興行場所取締規則」を警視庁が発布。この規則さえ守れば相撲していいよという警視庁のお墨付きを得て、「相撲不要論」は下火になったそうです。

あとは興行として成り立つ程度にお客さんに来てもらうだけ!

こっから先はプロレスの力道山や、プロ野球の長嶋茂雄みたいなもんですよ。万民に「すげー!」と言わせる圧倒的なスターが出ればいいんです。それで人が集まり金が集まる。そこへ有名人や権力者が「ファンです」と言うだけでブランド力があがる。

この時期の大相撲にとって、スター梅ヶ谷藤太郎であり、ブランド力をあげた有名人明治帝だったということだったみたい。

この時の天覧相撲が記録に残る明治17年芝離宮延遼館における天覧相撲のことらしい。きっと後楽園における村山実vs長嶋茂雄の天覧試合のように語り継がれるような晴れやかな印象を庶民に与えたんでしょうね。

そんな風景を思い浮かべたとき、裏で陛下が「相撲見たいから企画しといて」と伊藤に頼んでいようが、陛下の意を受けて伊藤が張り切って段取りしようが、帝を担ぎ出すまで場をあっためて盛り上げた現場の力士と裏方と、谷町をはじめとする贔屓のみんなの頑張りの方が印象に残る気がします。キラキラしてたと思います。いや、天覧相撲のその日、陛下も伊藤もきっとキラキラしてたんでしょうけどね。
日曜日の大相撲V32、白鵬関の発言について、マスコミの記事が増えて来ました。
でもgoogleで検索してかかってくる上位10件は「大久保利通と明治帝が大相撲の危機を救った」という文脈で書かれたものばかりです。その中に「断髪令は力士には適用しないようにと、大久保利通が明治帝に手紙で頼んだ」という文脈の記事を見かけました。「えぇぇえ?本当かなぁ」と思えてならないので、めずらしく2日ぶりのブログ更新です。

「大相撲」「大久保利通」「明治帝」のキーワードでかかってくる記事の上位は、この2日で白鵬関の発言に関するものにほとんど塗り換えられました。検証を冷静に行う為、3日以上前の記事優先で探してみたいと思います。

まず大相撲が危機に瀕していたこと、相撲がお好きであった明治帝が同じく相撲好きだった伊藤博文に働きかけて天覧相撲を企画し、天皇のお墨付きを与えることで大相撲の危機を救ったことは昨日書いた通りです。その大相撲の危機を救った天覧相撲とは、明治17年3月10日芝延遼館における興行でした。これはwikipediaや今年5月に書かれた舞の海秀平さんのサンケイスポーツの記事にもある通りです。

次に白鵬関が口にした断髪令ですが、これはwikipedia断髪令の項に書かれている通り、「散髪脱刀勝手たるべし」つまり髷を切ろうが刀を差さなかろうが勝手にしてよい、というのが主旨で、「髷を結ってはならない」「断髪しなければならない」と言った法律ではありません。もっとも、神仏分離令が「神仏習合を廃止し、神社に境内にある神宮寺などを分けて整理しなさい」という本来の主旨からそれて「寺と仏像をぶちこわせ」と誤解されて伝わったように、「散髪しなければならない」と勘違いして伝わり、女子までが「散髪しなければ」とショートカットにした例が多く発生したため、東京府が「女子断髪禁止令」を出す程、庶民の勘違いは多かったんだとも思いますが。

要するに重要なのは断髪令は断髪を命じたものではないことです。つまり髷を残すために政治家が運動する必要はありません。

次に東京府知事の出した「裸体禁止令」。こちらは断髪令と同時期に出されたものですが、違反者に罰金や鞭打ちの罰則が科されたので、大相撲に大きく影響を与えました。髷、刀、褌姿の飛脚、寺の境内にあった稲荷社。明治まで当たり前だった風景が次々と江戸から、いいえ東京から御一新の声とともに姿を消しました。「次に消えるのは相撲でしょ」と声があがるのは容易に想像出来ます。そうして実際に「相撲不要論」が起こり、これが現実に大相撲の興行を廃止へ追い込む波を生んだそうです。

この危機に明治帝政治家が力を合わせ、「天覧相撲」を実現し相撲復権(明治17年)となる訳です。問題はこの動きに大久保利通が関わったのか。でも大久保、西南戦争のあと、割と早い時期に紀尾井坂で暗殺されてますよ?

ここまでを整理します。(カッコ内はグレゴリオ暦)
明治4年8月9日(1871年9月23日) 断髪令 (大相撲に直接関係なし)
明治4年11月29日(1872年1月10日) 裸体禁止令
明治5年12月 太陽暦採用 明治5年12月3日になる筈だった日が明治6年1月1日に。
明治11年(1878年)5月14日 大久保利通暗殺
明治17年(1884年)3月10日 天覧相撲


実は相撲不要論がいったいいつ頃起こったものか、年号を見つけることは出来ませんでした。しかし「大久保が相撲擁護のために活動した」というのが真実であれば、その明治帝に奏上した手紙というのは明治11年大久保暗殺以前でなければなりません。

さて、ここで天覧相撲の記録を見つけることが出来ました。有限会社四季というやーたらお相撲に詳しい会社がその記録をネットに公開しています。→こちら
それによると明治帝はご在位の間に合計9回、相撲をご覧になっているそうです。その日付を上の年表にもう一度挟んでみましょう。

慶応4年4月17日(1868年) 天覧相撲 坐摩神社(京都相撲)
明治4年8月9日(1871年9月23日) 断髪令 (大相撲に直接関係なし)
明治4年11月29日(1872年1月10日) 裸体禁止令
明治5年6月6日(1872年) 天覧相撲 大阪造幣局(大阪相撲)
明治11年(1878年)5月14日 大久保利通暗殺
明治14年(1881年)5月9日 天覧相撲 麻布島津公別館
明治17年(1884年)3月10日 天覧相撲 芝延遼館
(相撲復権の天覧試合)
※慶応4年、明治5年の2回については開催日が旧暦、グレゴリオ暦のどっちかわからず

上記に示したように、大久保の暗殺後3年経った明治14年に明治帝は相撲をご覧になっています。しかし、その明治14年の天覧相撲が相撲復権に繋がったという記述にはまだ出会っていません。一方、明治17年の天覧相撲が相撲復権につながる非常に意義の大きな天覧相撲であったことは、前述のように複数のサイトで確認しています。つまり世にまき起こった「相撲不要論」とは明治14年と明治17年の間と考えざるを得ません。そうなると明治11年に死んだ大久保の陛下に宛てて書いた手紙が大相撲の危機を救ったという言葉には疑問符をつけざるを得ない訳ですよ。ね。

あ、これは白鵬関に文句言いたい訳じゃナイですよ全然。情報の裏をとらないで情報コピペするだけのマスコミに対する文句です。はい。
今日、白鵬関が32度目の優勝を飾りました。
私は相撲ファンではないので偉業の大きさは正直分かりません。
けど好角家で知られるデーモン閣下のおかげで過去の優勝のインタビューをサンデースポーツで何度か見ました。そのときの白鵬関の落ち着きは覚えています。その過去の優勝に比べて、今日の優勝の彼の涙はひときわ印象に残りました。母国モンゴルの言葉で祖国の両親、知人、縁もゆかりもないけど異国で活躍する郷里の英雄としてただただ白鵬関を慕っているファンに向けての言葉がありました。そのなかで「TAIHOH」という言葉だけがききとれた。全訳は夜のニュースで紹介されると期待しています。

ところで白鵬関のインタビューの中でもう一つ興味深いことが語られていた。
「この国の伝統文化を遺してくれた天皇陛下にお礼を言いたいです」と。
またこの言葉の前に「大久保利通」「断髪令」についても触れていました。
指しているのは明治初期。開国して文明化を進めた明治政府が出した政策のなかに散髪脱刀令があります。これは「髪を切りなさい。髷を落としなさい」ではなく、「いままで髷を結い帯刀するのが常識でしたが、髷を切ろうが帯刀しなかろうが好きにしていいです」という触れ書きです。

同時期、大相撲の興行に大きく関係する条例として、白鵬関のインタビューでは触れられていませんでしたが、東京府によって出された「裸体禁止令」というのがあります。港や運河で褌一丁で荷を運ぶ江戸の庶民は異人さんの目には野蛮きわまりないと映ったみたいです。このときの東京府知事は徳川の幕臣から明治の政治家になった大久保一翁(忠寛)という人でした。(江戸初期の「三河物語」で有名な大久保彦左衛門の子孫だと思っていたけど直接は繋がらないみたい。でも同じ三河大久保氏には違いないらしい。)
髷を切ろうが切るまいが好きにしてよいという断髪令はともかく、この裸体禁止令が大相撲にとっては大問題で、公衆の面前でまわし一本のおっさんが2人ガチンコで組み合う相撲も取り締まりの対象となったみたい。力士にとっては失職決定の条例だけに、素直に従う訳にはいかない。条例を知りながら大相撲の興行はやめなかったみたいです。ちなみにこの裸体禁止令を守らなかった場合、棒で叩いたり罰金とられたりとかの罰則があったそうですが、一部力士は「罰則上等!」の心構えで罰則に応じながら興行を続けたそうです。

しかし圧力に耐えられない力士も居る。次第に細り始めた大相撲を惜しんだ明治天皇の依頼で伊藤博文が動き、天覧相撲を企画する(天皇のお墨付きを与える)ことによって”大相撲は例外とし興行は認める”となったそうです。

ここで問題となるのは白鵬関の言葉。大久保利通を敵とするか味方とするか。彼の言葉は明確ではなかったしもともと「正確ではないかも」と前置きしてからの言葉でしたから彼を言及するつもりはないのですが。一部報道に対して気になったので、久しぶりにブログ書いてみました。

断髪令を出したのは明治4年、1871年。当時、議会議員制度はなかったので散髪脱刀令は太政官、つまり選挙で選ばれた訳ではない雄藩出身の武家、有力公家などで構成されたいわゆる明治政府が出した。この太政官(明治政府)に大久保は含まれる。また記録上、散髪脱刀令後に初めて髷を落としたのは大久保らしい(木戸の断髪はこれに先んじてるらしいが断髪令より早かったらしい)。だから白鵬関は、大久保利道は助けてくれた人としてではなく、どちらかといえば大相撲に対してマイナスの政策をした人として認識されるべきじゃないかしらと思うのだけど?

だから白鵬関のコメントの真意は「大久保利道の断髪令(と大久保一翁の裸体禁止令)のおかげで大相撲が危機に瀕したが明治帝がそれを救ってくれた。伝統文化を守ってくれてありがとうございます」と言うことになるのではないのかと思うのだけど。

でもネットのみなさんの意見(マスコミ報道ではなく)をみていて驚いたのは、このとき内閣総理大臣杯授与のためにこの博多の会場に来ていた麻生太郎財務相(福岡県飯塚市が地元)高祖父がそうだ!大久保利通でしたわ! 
だから本当は「明治帝ありがとう」とだけ言おうとしてたけど、麻生さんの姿を見て咄嗟に「あ、大久保利通も入れよう」と思ったのだとしたら…すごい。スゴ過ぎる。
マスコミ!見習えよ!日本史常識、モンゴル人より足りてないぞ!

この辺りを掘ってくれないかなサンデースポーツ…と思っていたが何も突っ込んではくれなかった。モンゴル語コメントの全訳もないしさ。どうしてデーモン閣下を呼ばないんだもう。ぷんすか。
壇ノ浦で平家が滅亡したあと、能登に流された時忠は配流先の能登で1189年に死んだと一般的には信じられている。けど、現在まで能登に伝わる時忠ご子孫の家の由緒書には、1204年没と書かれているのだそうです。

このお話を先月の「平家の里サミット」で伺って以来、時忠が死亡年月をねつ造する必要性があったのかが気になっています。時忠義経の縁者であったことについてどれくらい本気でビビってたのか…。

これを検証するために、壇ノ浦後の義経頼朝ごっしー秀衡の足跡を追ってみました。

1185年3月 義経、壇ノ浦で勝利
1185年4月 都に凱旋し院御厩司に任官
1185年5月 鎌倉に下向するも頼朝と対面叶わず (腰越状)

この辺りまでは、頼朝もちょっと腹立っただけで本気で義経を敵視していなかったんじゃ…と思う。だって本当に敵視していたら、後白河院や公家や、西国の兵力と結ぶ可能性を持たせて西国へ帰すべきではないよね。

1185年8月 義経、伊予守、大夫尉を兼任
      後白河法皇の南都御幸を供奉


ごっしー義経の密接な関係が鎌倉に報告されます。さすがに頼朝も”しまった!”と思ったでしょう。腰越状、ちゃんと読んでなかったのかな?私が読んでも反省してないの分かるよ?大江広元は読んだでしょうに。(あるいは泳がせて討つための口実を作らせた?)
ちなみに、この後白河院南都御幸は重衡が焼いた大仏の開眼供養のため。このときは八条院も経宗もごっしーに同行したんだよね。

1185年9月 梶原景季から行家の追討を迫られるも、体調不良を口実に辞退
1185年10月 義経頼朝方に堀川邸を襲われる。
       翌日、義経頼朝追討の院宣をごっしーにねだってゲット。


…したはいいが、義経に従うもの集まらず。
頼朝も鎌倉で御家人2098人に挙兵を呼びかけたものの、応じたのはわずか58人だったとか。
そりゃそうだ。ついこないだまで続いた戦乱がようやく終わったばっかで何でまた戦?しかもあんたら兄弟でしょ?そりゃ少々兄弟仲が悪いとは聞いてたけど院や周囲巻き込んで戦するかぁ?!なんでしょうね。京都も鎌倉もドン引き。周囲から理解されない兄弟喧嘩。ですわな、この時点では。ただ周囲がみんな「挙兵?」とキョトンとしてるこの9月に時忠はもう能登に下向決めてるんですよねぇ…。

1185年10月  頼朝ら、行家義経討伐のため鎌倉を出立
1185年11月 義経、都落ち。尼崎から西国へ向け舟に乗るも嵐に遭う。
       静御前、鎌倉方に捕縛。


義経頼朝の関係悪化が無視出来ない状況になりました。頼朝追討の院宣を出して以来、京には”頼朝立腹”の報せが続々届きました。京に着いた鎌倉軍はずかずかと後白河院の領域へ踏み込み、ごっしーの知行国播磨ではごっしーの代官を追い出して蔵をキープ。財産権の所有を主張したらしい。実力行使にごっしーとその近臣たちはビビりあがります。

1185年11月 手のひらを返したごっしー義経追捕の院宣。

しかしこのあと、鎌倉から出された措置は

義経行家追捕を目的として、全国に「守護地頭」を設置

へーそうだったのか!
続いて

・藤原摂関家三男兼実へ内覧宣下ごっしーは嫡男基通推し)
・議奏公卿10名による朝廷運営
・親義経派公卿14名の解官


内容は人事への口出しばっかで、死罪や財産没収等はなし。
平治の乱では義朝信頼に錦の御旗がわりに拉致られ、清盛には平家の兵に取り囲まれ幽閉され、義仲には法住寺の御殿を丸焼きにされ…と、これまで波瀾万丈な半生を過ごしたごっしーとしては、今度はどんな目に遭うのか?と戦々恐々だったのに…拍子抜け。(それでも毎度ギリギリまで攻めにいくごっしー、さすがです)

頼朝は清盛より甘いと判断したごっしーは、再び手のひらを返し鎌倉に仕掛けるようになります。

1186年2月 熊野詣の費用を鎌倉にねだる
1186年3月 平家没官領ちょうだい♪とねだってゲット

これ自分の才覚でやってたんでしょか?ごっしーってば、なんか策士すぎません?まずはお金をせびって相手の反応見るって、緊張関係にある相手に最初に仕掛ける一手としてはけっこう高度な技のように思うのですけど??頼朝もお金ねだられたからって法皇を幽閉したり流したり、そんな器の小さい真似出来ないでしょう?ダメならNOで終わりなだけだし。
続いて

1186年3月 昨11月解官された高階泰経の配流取り消しを求めて承認さす

ごっしー、今度は人事に口出してみた。叶えられた。もう少し人事に口はさんでみよう。

1186年4月-7月 内覧の任命、藤原摂関家領の差配について、そのイニシアチブを頼朝vsごっしーで争う

昨11月に飲まされた人事ネタをもう一つひっくり返しに行きます。摂関家の人事権です。頼朝が兼実を、ごっしーが基実の遺児基通をかつぎ、藤原摂関家の氏長者の座をかけて代理戦争しました。保元の乱以前には忠通頼長兄弟の世襲問題は忠実が徹底的に口を出した。でもそれは摂関家内の問題であって他人にとやかく言われる筋合いのものじゃなかった。しかし、現役藤原氏長者の頼長が反逆者として死んだことから、頼長が所有してた荘園の所有権について他人から口出しされるようになったんだよね。忠通の子、基実が平家と結んだあと、急死したときにもその領地を誰の所有にするかを、遺児基通そっちのけで平家と基房、ごっしーで争ったり。この頃には藤原摂関家の世襲問題は、天皇家と同様、誰かの勢力争いのために利用されるものになってたんですな。
しかし、他人の世襲問題、財産問題で綱引きを仕掛ける手腕はさすがですすごいです、ごっしー。失敗しても自分に傷はつかないのに相手と自分の力関係はこの勝負の結果に関わってくる、うわーすごいわーテンション上がるわー。

ごっしーが力だめしに挑んだ喧嘩の結果はイーブン。藤原氏は九条と近衛に分裂します。冬嗣以来、圧倒的権力で朝廷を牛耳って来た藤原摂関家の優位性は崩れ去りました。

一度は高圧的に京に脅しを掛けた頼朝がごっしーと引き分けるに至った理由としては、潜伏残党平家の反乱や、それまでの秩序がひっくり返った混乱に乗じた便乗強盗のようなものが世に横行したために、鎌倉はその鎮圧に追われて義経追討、ごっしー幽閉どころではなかった事情があるそうです。

1186年4月- 吉野、熊野、比叡山、南都等、近畿各所で義経目撃の噂
       噂の場所に鎌倉方の捜索が入るも空振りといういたちごっこ続く


頼朝は派遣した兵が空振りした報せを聞くたびに、「吉野にいた」「いや伊勢に居た」というのは京貴族&ごっしーの流したガセ情報だろうと地団駄踏んでたらしい。
この鎌倉を翻弄する動き、義経にも朝廷にも利があるけど、実際どれくらい連携してたんでしょう。この時期の義経がどれくらい本気で逃げていたのか。疲弊していたのか、あるいは京公卿や寺社の協力を得て悠々自適だったのか…。

1186年閏7月 捕えられて鎌倉にいた静、義経の男児を出産。直ちに棄死。

頼朝、せめてもの腹いせ?けどやっぱり捕まらない日々が続く。

1186年11月 頼朝、京都側がこれ以上義経に味方するなら大軍を送ると恫喝

この辺りから、義経をどうやって捕まえたらいいか?とか義経が捕まるよう神頼みしよう!などが朝議の記録に現れるらしい。本気の話し合いか、鎌倉へのパフォーマンスか知らんけど。

1187年1月 伊勢に神頼み
1187年3月 高野山に神頼み(本地垂迹の時代だからね)

とか。何じゃそら!と突っ込むべきか、なるほどと頷くべきか…。
ただこの1187年2月に義経が近畿から奥州へ向けて旅立ってることを見ると、この神頼みラッシュは鎌倉と朝廷の本気を示す行為と見るべきなんじゃろな…。

この頃になるとごっしー義経を諦めたか、鎌倉に歩み寄るようになる。

1187年6月 閑院内裏を幕府のおさいふで修理
1187年8月 洛中の治安維持協力を鎌倉に頼み、鎌倉から兵が上京

義経を奥州へ旅立たせたのはむしろごっしーに切り捨てられたことの方が要因かも知れない。とか思ったり…。

1187年10月 藤原秀衡没

えっ!?もう??早過ぎるよ!
義経を平泉に迎えてわずか1年経たないうちにファラオ秀衡は亡くなります。死に際に「義経を主君とし国衡、泰衡で結束せよ」とファラオは遺言したそうです。中尊寺金色堂に残る秀衡ミイラの検死結果は脳卒中だったらしいので、心の準備はあまり出来なかったんちゃうかなと思いますが。
ファラオの男子は記録にあるだけでも6人。そのうち秀衡があとを託した人物は2人。妾腹の長男国衡と、正妻の子で次男泰衡。行動力があり一門を背中で引っ張るたくましい国衡に対し、都育ちの公家の娘を母に持つ泰衡は血筋以外に褒めるとこない人みたい…?

1188年2月 頼朝は義経が平泉にいると確証を得る
      けど厄年だから頼朝、今年一年、戦はしない宣言。

えー!?厄年?この緊張状態で厄年だから戦しないって! 朝幕関係は安定してるから、西への憂いなく平泉に対峙できるかと思いきや、「厄年だから」ってのと「亡母のための五重塔建立予定だから」という理由で、頼朝てば1188年が明けるまで戦はしないんだってさ。
(久安三年(1147年)生の頼朝、1188年は数えで42歳。確かに男の大厄ですわ。この時代から厄年てあるのねー。うわーうわー。)
しかし代替わり直後の1188年、この一年大事だよ?下手すりゃこのモラトリアム期間1年て、敵の防御力をあげさせる猶予期間になったかも知れないよ?まあ結果オーライだけど。

死に際の秀衡が「義経を主君とし国衡、泰衡で結束せよ」と三人に起請文を書かせたのも、それを書かせずには死ねない程、国衡・泰衡の仲が良さそうに見えなかったから。頼朝はそれを知ってたのか。鎌倉から動くことなく手紙で揺さぶったらしい。

奥州藤原氏の4代目当主となった泰衡は、父秀衡の遺命を破り鎌倉に屈しました。

1189年閏4月 義経、泰衡の兵500騎に追いつめられ衣川にて自刃。

頼朝、秀衡、ごっしーの足跡をwikiで追う限り、時忠が死んだフリをしなきゃいけない事項が、ここまで見当たりません…。

が、あった。これだ。たぶんこれだ。義経というか比叡山の足跡にそれがある。自刃に先立つこと4ヶ月。

1189年1月 義経が京都に戻る意志を書いた手紙を持った比叡山の僧が捕まる

これ、平泉の人間が捕まったんじゃないんですよ。比叡山の僧が捕まったんですよ。孤立無援の平泉が一方的に都に手紙を送ったんじゃないんですよ。義経と連絡とるために都周辺から奥州へ人が行き来しとったっちゅーことなんですよ。
秀衡が死んで、都では義経を見切った人がいたのは確かでしょう。でも見捨ててない人が居た。「G」じゃないけどこういうのは1人見つかったら他にも味方がいると思っていい。

もちろんそこに時忠が含まれるかどうか分からない。でももしも時忠が連絡を取っていたとしたら?泰衡が義経を鎌倉に売ろうとしているこの切羽詰まった状況で、義経が「平泉を出たい」とSOSを出した時、時忠がとるべき作戦は?

「分かった。能登へ迎える準備をする。そのためにまず。死んだフリ」

でいいんじゃないですか?

1187年10月 秀衡死去
1188年2月 頼朝、厄年だから1年、戦争しない宣言
1188年暮れ 平泉では来年に向けてムード険悪化(義経焦る)
1189年1月 義経比叡山に逃亡の相談
1189年2月 泰衡、親義経派の異母弟頼衡を殺害
1189年2月 泰衡、義経を召進する意思を鎌倉に伝える
1189年3月 義経の平泉脱出計画を時忠が察知
      先月24日付の死亡届を都に出すとともに義経受け入れ準備
1189年4月 泰衡の態度、更に硬化(義経、平泉を脱出できず)

1189年閏4月 義経自刃

という筋書きを書いてみた。
ピンク文字が私の想像です。
こないだ、時忠が死んだフリをすることにした切っ掛けは「1187年、京都から平泉へ下る義経と連絡を取った」だと思ったけど、タイミング的には「1189年、平泉から逃げる先を探す義経を能登へ迎えることになり、鎌倉の目をくらます必要ができたから」のがシックリ来ます。
wikipediaにも書かれてる程度の事実(むらさき文字)の間に無理なくおさまらない?ど?

それとも、どうしても都に帰りたくなって死んだフリしてこっそり帰ろうと思った?
壇ノ浦後流された人は、高階泰経とか息子の時実にしても死んだフリなんかしなくても都帰ってるよ?
どっちがシックリ来る?

もちろん想像ですけどね。
時忠が能登に下ってからも義経と連絡を取っていた事実を見聞きしたことは今んとこないですし。
けど時忠が完璧に証拠消してたらあり得ない話じゃない。
じゃない?

上時国家でお話を伺った後、則貞の時忠墓へ。

時國家、上時国家は、壇ノ浦合戦後のドタバタも終わって時忠の血筋が問題視されなくなってから建てられた家。輪島市街からは離れていますが、川沿いの比較的拓けた土地に建っており、平和な空気を感じられます。しかし時忠が最初に家を建てて住んだというこの地は、さらに車で20分。川沿いではありますがかなり奥地です。
$MamBOのブログ-則貞家マップ

信号も民家も街灯もない道路を登ると平家の郷のモニュメントが。
MamBOのブログ

わきにはバス停。バス停の名前が則貞です。
車で来られる方はここに駐車できます。無料です。
MamBOのブログ-則貞バス停

ここから階段で谷を降りると時忠の墓とその墓を守り暮らす則貞家が。今回は足下が悪いと言うことで特別にマイクロバスのまま、下まで連れてって下さいました。(大納言の間に続き、特別扱い…)
おうちのまえには赤いのぼりが。
MamBOのブログ
赤い旗みてテンション上がるって。お前は共産党か!
MamBOのブログ
おうちに揚羽蝶紋だよ!

その少し先に時忠一門のお墓があります。
MamBOのブログ-時忠墓5
石碑には「時忠卿甲子年卯月二十四日 御逝去」と。
甲子年、つまり1204年です。

普段は門で閉じられているという垣根の内側に入れて頂きました。(何から何まで特別扱い…すみません…)
MamBOのブログ-時忠墓2

時忠と時国以下ご子孫のお墓です。ただ石で作った五輪塔は鎌倉期にはなかなかないものであるのと、崖崩れのあとが見られることから、これは後世(室町初期)に作ったものと考えるのが妥当なのだとか。上時国家のご当主は、「1189年、時忠は京にニセの死亡届を出すと同時に則貞の屋敷横にダミーのお墓を作った。そのあと古屋の隠れ屋敷で15年生き長らえ、1204年に没したとき古屋の屋敷に本墓を作ったのではないか?」と話しておいででした。今日は連れて行って頂けませんでしたが、この則貞の地とは別の”古屋”と呼ばれる場所に大納言墓と呼ばれるものがあるのだそうです。

ここでは則貞家ご当主が法被を着て迎えて下さいました。
MamBOのブログ
赤い揚羽蝶紋…このはっぴ欲しひ…

おうちの裏手には田んぼがあり、そこでは古代米を育てているとのこと。そしてこの日はその田んぼで穫れた古代米を使ったおにぎりを参加者みんなにお土産として持たせて下さいました。ご当主と奥様かな?ご近所さんかな?数人でご用意してくださった手作りのおにぎり。これを頂いた時、嬉しくて涙出そうでした(というかバスに乗ってからこっそり泣いてました私)。

実は今日の予定表では、この直後がお昼ご飯なんです。頂いてもいま食べる訳にはいきません。結局お持ち帰りになります。9月8日、残暑真っ最中です。則貞さんちのみなさんに調理師免許がある訳でなし、食中毒でも…と思ったら主催者側としてはお断りした筈です。実際、能登観光協会さんの言葉からは「そのあとすぐ食事ですから」「じゃあ持ち帰れるようにします」「でも食中毒でも起こると問題ですから」「いえいえ気をつけますから是非」という今日までになされた押し問答が伺えました。そしておにぎりは配られた。
一見の私はおいといて、今日のゲストさんは全国の平家に所縁の地から集まった方々。そんな人たちが能登を訪れたことをみなさん、本当に喜んでらっしゃるんだなぁ…絶対おもてなししなきゃって思わはったんだなあ…と思ったらなんか。思いが大きくて…。

平家と言えば「おごれるものも久しからず」。しかも時忠ときたら「平家にあらずんば人にあらず」の傲慢なヤツが世間の認識ですから。明治期の会津人が逆臣の汚名に耐えたように、愛知吉良町が吉良上野介大悪人の評判に耐えたように、能登の人たちも肩身の狭い思いをしていた所があったのかも知れません。それでも時忠を恥として恨んだりすることなく、忘れてしまうことなく、逆に大納言の重みを誇りにして800年を過ごして来た。
そりゃ京都や加賀金沢の人たちからしたら、奥能登のドへき地かもしれないけど、うちの先祖は大納言なんだぞっていう声には出さないプライドと思い入れを、おにぎりと一緒に頂いた気がしました。

そんな平家サミットの中に、今日は私も入れて頂けたんだなぁと思ったら。申し訳なくて有り難くて思いの大きさに押しつぶされそうです…嬉しい。


能登の人たちが語り伝えてることも、能登以外の平家の里が語り伝えてる伝説も、中央の歴史学者からしたら、史書の裏付けを伴わない、くだらない妄想なのかも知れません。正直、長崎宇久島の家盛伝説なんかは私も「へ?なぜ家盛が五島列島に?」と思います。
でも私も分かるんだよな。そういう、書物として書かれることもなく父や祖父から口伝のみで地元に伝わった話を、まっすぐ信じて誇りに思う気持ち。
私の実家にも戦国時代の合戦にまつわる多くの伝承が伝わっています。うちの場合は教科書にも載っている有名な合戦なので合戦の事実を否定する学者はいないはずですが、教科書記載の事実以外の伝承についてはまあ…ヤバい(笑)。(勝頼が合戦の前夜××な夢を見た…とかね)
けど稲刈りの合間に父から聞いた三枝兄弟の話や、学校帰りに小2のクラスメイトから聞いた馬場美濃のカッコいい最期こそ、私は後世に伝えたい。授業で習った教科書の知識より、親から聞いた伝承・伝説を、見て来た様な顔で自慢げに語りたい。
勝頼の夢も馬場美濃の最期も事実証明できないけどね。



歴史学者も異論なしで認める京都の白河北殿や本能寺の跡地なんかで、地元の誰から思い入れを持って語られることもなくポツンと石碑だけが立ってたりするの見ることあるじゃないですか。ひどいときはゴミ集積所で生ゴミに埋もれてたり…。そういうの見ると、歴史学者による事実認定なんかより、地元の人たちが敬意と誇りを持って800年語り伝えた事実の方がなんかスゴいんじゃないかって…。
能登からの帰り道、則貞さんから頂いたおにぎりを食べながら、ちょっとそんなことを思った。


「事実は一つ 真実なんて人の数ほどある妄想!」
なんて某バンドは歌ってますけど、その人が真剣に信じてたらそれは真実。
他人が妄想だと思おうがその人にとっては真実。
逆に教科書が事実だと言おうが、信じて心に留める人がいなけりゃそこには妄想すらない。

そんなことを思った時忠能登配流記念日の9月23日でした。




あ、でも時忠の没年に関してはちょっとマジですよ?

時忠が人生の晩年を能登でどう過ごしたのか?
義経は能登へ来たのか?
時忠は義経を助けたのか?
時忠は自分の没年を偽ったのか?

もちろんこれらを証明出来るだけの記録はない。
でも記録がないことは、事実がないことの根拠にはならない。
よね?