F工業広報室員のM子と、N新聞S記者が乗ったタクシーは、JR草津駅前に到着した。

駅前のロータリーに降り立ち、2階にある駅プラットホームへ2人で向かう。

「Mさん、知ってる? JRの場合、ここからだと、まっすぐ大阪まで行くより、一旦、京都で降りて、京都からまた大阪へ、って行った方が安上がりなんだよ」

M子は、きょとんとしていた。

「え、草津から大阪への料金より、草津から京都、京都から大阪を足したほうが安いってことですか?」

「そう、その通り」

S記者によると、まっすぐ大阪へいった場合の料金は1110円だが、草津から京都が400円、京都から大阪が540円だから合計で940円。

「トータルでみたら、170円も安い。びっくりするよね」

M子にしてみたら、驚くというより、なんだそんなことが起こるのか、不思議でならなかった。

「JR西日本の戦略なんだろうねえ」とS。

大阪ー神戸間、大阪ー京都間には、JR西日本のほかにも、阪急電鉄、京阪電気鉄道も走っている。だから、戦略的に安い料金体系を取っているのだという。

「JRの料金体系というのは複雑だから、よく勉強したら、よりやすく乗れる方法ってのがある。ラッシュアワーを避けた時間にしか乗れない回数券も販売していて、それをバラして売っている金券ショップもある。それを利用したら、大阪ー京都間が330円程度かな」

M子は思わず、「Sさんて、鉄道マニアなんですか?」と聞いた。

「いや、以前、記事を書いたことがあるだけだよ。男がこんな細かいこと知っていたら、ちょっと気味わるいよね。でも、世の中って、知らないと損することがたくさんあるんだなあって、記事を書いたときにつくづく感じたんだ」

階段を上り、2人で切符売り場にたどり着いた。

「まあ、変な話をしたけど、ということだから、いったん京都駅で降りて、お茶でもする?」

Sが聞いてきた。

M子は、2人でもう少し話がしたいと思っていただけに、自然なながれで京都に降り立つことを提案されて、どぎまぎし、すぐに返事ができなかった。

それを、会社に戻るよう指示を受けているのかと、Sは思ったのかもしれない。

「あ、時間がだめかな・・・・」と続けた。

M子はあわてた。こんなチャンスを棒に振ってなるものか。

「いえいえ、大丈夫です。それに、ご取材についての不足事項がないか、確認させていただくお時間もいただきたかったので、ちょうどよかったです」

珍しく早口でまくし立てた。

「じゃあ、切符は京都まで買ってね」

2人は隣り合わせの券売機に立った。

M子は、小銭入れから400円を出して、券売機に入れながら考えていた。

京都でどんな喫茶店に入ろうか、なにを喋るのだろう、プライベートなことを聞いてもいいだろうか・・・・

取材内容に不足がないかを確認することなど、すっかり心からはなくなっていた。
工場長と副工場長が見送るなか、M子はS記者とともにタクシーに乗り込んだ。

もちろん、支払いをするM子が奥に座る。

来たときと同様、「失礼ながら、わたしが奥に・・・」と断ってから乗り込んだ。

取材が一段落し、すこし態度をやわらかくして、なれなれしくしてもいいのかもしれない、と感じるところもあったが、M子は礼儀正しさを崩さなかった。

その様子に好感をもったのか、Sが少し微笑んだようにも見えた。

タクシーが工場の総務棟の前を出る。すかさず、M子はタクシーの窓を開け、頭を下げた。横で、Sも頭を下げている。

タクシーが工場を出るときに、リヤウィンドウに向けて体を傾けると、工場長も、副工場長も、深々と頭を下げているのが見えた。M子はSとともに、再び頭を下げた。

M子は、上司のHに、こうした作法について、いろいろ教えられてきた。

「お茶会などでは、客と亭主は、玄関先を出たところで挨拶する。亭主は、そこで見送っておしまいではない。客が、辻までいって曲がるところまで、しっかり見送る。

客のほうも、辻でもう一度振り向き、頭を下げ、亭主も頭を下げる。客が振り向いたときに、すでに亭主は玄関先にいないようでは、失格だよ」

ビジネス世界でも、同じ作法を心がければよいと教えられた。

取材を受けた側は、タクシーが見えなくなるまで見送り、最後のところでもう一度頭を下げる。見送られる側についていく広報室員も、ともに頭を下げ、角でもう一度振り向く。

M子は、それなりに知名度のあるメーカーに就職してよかったと、つくづく思っていた。

何も知らないまま社会人になり、会社のなかで、いろんな行儀作法を教えられ、ありがたいと感じているからだ。

タクシーは、工場の敷地を出て、JR草津駅に向かっていた。

「記事の掲載日が決まったら、連絡しますね」

Sが言った。

M子は「よろしくお願いします」と返答しながら、心の中で、きょうこれから、どうするのだろうと考えていた。Sは大阪市内にある会社に戻るのだろうか。M子も、会社に戻ったほうがいいだろうか。

Hからは、会社にもどらなくてもいい、といわれていた。「もし、Sさんが都合いいようなら、飲みに誘って、広報室予算から払ってもいい」といわれていた。

ただ、こうも付け加えていた。

「若い女性広報室員にご馳走されることを、Sさんが快く思わないかもしれないから、その辺は、探ってからにしなさい」

「お礼に、今度ご馳走するよ」と言ったSの言葉を考えると、「これから飲みに行きませんか? 弊社のおごりですから」と誘うのは、どうにも変だ。

M子は、ただ、大阪まででも一緒に電車で戻れたら、それでいいと思っていた。

タクシーはJR草津駅前に到着した。
S記者の空気清浄機の取材は、午後3時半に終了した。

M子は、調べてあった近くのタクシー会社に電話をかけ、駅までの迎えの車を予約した。

「今日は1日ありがとう」

Sの言葉に、すこし顔が赤くなったのではないかと、M子は思った。

「いえ、そう言っていただけるだけで、わたしとしてはとてもうれしいです」

そう答えて、そのままうつむいてしまった。Sに対する好意に、M子自身が気づいた瞬間だった。

取材の間にも、うすうす感じていた気持ちだったが、いま、はっきりとわかった。

ただ、うすうす気づいているくらいがやりやすかったとも思う。はっきりと自覚なんかして、失敗だったかもしれない。

自覚してしまうと、言動にその雰囲気が出てしまうからだ。

落ち着かなくなった。どういう表情、言葉で応じたらいいのだろう。M子は、急にどぎまぎし始めた。

滋賀工場の取材対応者たちが、応接室から出て行き、工場長、副工場長があいさつのために部屋にやってくる間、5分ほど、Sと2人きりになってしまった。

なにか喋って、間を持たせなければ・・・。考えれば考えるほど、言葉が出なかった。

Sはどう考えているのだろうか。表情からは読み取れない。メモしていたノート、カメラをかばんに片付けながら、わすれていることがないかを、チェックしているようだった。

M子の心臓の音が高くなりはじめた。まさか、聞こえるのではないかと、心配になり始めたとき、Sのほうが口を開いた。

「今回の取材で、F工業のことが、一段と深く理解できましたよ。会社として、とても好きになってきた」

その言葉で、すこし、気持ちが落ち着いた。仕事モードに、心を切り替えられた。

「今回の取材で、わたしもいろんなことを勉強させていただきました」と、冷静に答えることができた。

Sは、微笑んだ。

「Mさんにアテンドしてもらったから、こそですね。でなければ、これほど収穫の大きな取材にはならなかった。今度、お礼しますよ」

M子は、心の中で、思わず「あ」と声を上げていた。

そうなんだ。この誘いを待っていたのだ。

「そんな、お礼なんて・・・」

口ごもったが、「好きな食事は」と聞かれたら、「中華」と答えようと、心の中で準備していた。

Sは、「来月から東京に予算の応援取材にいかなければ、戻ったら、ぜひ、おいしいものをごちそうします」と続けた。

M子は、思わず、「まあ、うれしいです。ぜひ」と即答していた。
F工業滋賀工場での取材は、午後に入り、最新の空気清浄機の説明に入った。

N新聞S記者からあらかじめもらっていた質問票は、あらかじめファクシミリで送ってあった。

取材立会いの気を遣う部分が終了し、M子はほっとしていた。

空気清浄機についての質問と回答のやりとりは、傍観者として聞いていた。というのも、S記者には、頼まれて事前レクをしている。

そのために、M子自身がかなり空気清浄機のことについて詳しくなっていた。

「ウィルス除去機能を搭載する際に、どこに、どうやって組み込むか、いくつか検討したのですか?」

目の前でS記者が質問していた。

組み込む位置について、3カ所検討し、実験を重ね、検証データを得ていたという事実について、M子は知っていた。

傍観者としてS記者のやりとりを見つめていた。

改めて、S記者の質問の仕方が的確で、無駄がないと感じた。質問した後、相手が回答しやすいように間をあけて、うなずいている。

「さわやなか人だな」

心の中でつぶやいた。

M子は、S記者のプライベートについて、もっと知りたいと、思うようになっていた。
N新聞S記者の滋賀工場での取材は順調に進み、午後、空気清浄機の新製品の開発担当者のインタビューに移った。

入社以来はじめて、取材のすべての手配を一人でやった広報室員M子。今回の仕事で、S記者側からも、工場の関係者からも、一定の評価を得なければいけない。

いままでのところ、まずまずの評価が得られるのではないかと、心の中で思っていた。

いよいよ、S記者が希望したメーンの取材に入るが、実際のことろ、M子にとって、一番難しい仕事は、ほぼ終了したようなものだった。

工場長、副工場長とのやりとりがM子としては最も気を遣う部分で、それがミスなく進んだことことから、ほっとしていた。

応接室での昼食の後、副工場長Yに案内されたのは、総務棟の2階にある大きな会議室だった。

「どうぞ。空気清浄機の開発の歴史がわかるよう、古い機種も用意しています」

業務用空気清浄機では大手のF工業が、空気清浄機を発売したのは10年前。花粉症対策という意味合いが強かった。

最近は、さまざまな新種の細菌が登場していることから、ライバルメーカーも含め、除菌機能を搭載した製品が増えている。

F工業の新製品も、最新の除菌機能が目玉で、その機能を証明するために公的機関に依頼した検証データも取っている。

「古いものまで用意していただいて、開発の歴史が一目瞭然ですね。お手間かけて申し訳ないです」

S記者は丁寧に頭を下げた。

「では、担当者を呼んで参ります」

Y副工場長が部屋を出た。

「本当に、今日の取材の手配、ありがとうございました。工場の方に、Mさんからも、心からお礼を伝えてください。工場まで足を運んだかいがありました」

Sは、M子に対して言った。

礼儀正しいSに、好意を抱いてきたM子だったが、細かい心配りができる人であることを改めて知り、一段と好感をもった。

「こちらこそ、遠いところまで着ていただいたこと、感謝しています」

ドアがなった。

「失礼します」

資料を抱えて、開発担当者とみられる男性2人が入ってきた。

M子は、開発におうじてくれる担当者の名前を、事前に確認していた。たしか、K村とU田という名前だったはずである。

胸の名札を確認する。

間違いない。2人の名前は、S記者にも前日、伝えてあった。

「よろしくお願いします」

2人は挨拶をして、並べてある空気清浄機の前に立った。
「では、空気清浄機の取材にうつりましょうか」

昼食後のコーヒーを、応接室にいる全員が飲み終えたのを見て、M子は声をかけた。

前日までにM子がやりとりしたY副工場長の話では、空気清浄機の取材については、昼食を食べた応接室の2部屋となりで行うことになっている。

これまでの機種全部と、最新製品とを並べ、開発責任者が取材に応じる用意をすることになっていた。

「ごちそうさまでした」

N新聞のS記者が工場長に対して頭を下げた。

M子は、その様子を横目でみながら、Sの礼儀のよさがうれしかった。

自分が連れてきた記者が、態度の悪い記者だったら、広報室員としてのM子の評価も下がるに違いない。

礼儀正しい記者をアテンドしてきたことは、M子の評価に悪い影響を与えようがない。

「本日は、お運びいただき、ありがとうございました。午後に外出しなければいけないので、ご取材後にお見送りもできませんが、どうぞお気をつけて大阪までお戻りください」

T工場長が応じた。

工場長といえば、一国一城の主である。いくら本社の人間が偉そうぶっても、製造現場がそっぽを向けば、会社は動かない。

その工場長がここまで丁寧にSに挨拶するのだから、Sに対して好感をもったのだと、M子は感じた。

今回の取材アテンドのメーンイベントは、午後の空気清浄機の開発者に対するものではあるが、M子としては、工場長、副工場長と接する午前の仕事のほうが重要だった。

広報室員としてのM子の力量を計るのは、ほとんどがこの午前の工場幹部とのやりとりとなる。

製造現場と本社広報室との、もっとも気を遣う部分は、この午前のアテンドであり、工場長のあいさつから、無事、乗り越えることができたと、M子は内心ほっとしていた。

「T工場長、本日はお忙しいところありがとうございました」

頭を深々と下げたM子に対し、Tは笑顔を返した。

取材アテンドに対して合格点をもらえたのだと、確信した。
工場見学を終えたS記者とF工業広報室員、M子。

応接室に入り、T工場長、Y副工場長と4人での昼食となった。

センターテーブルの上には、近くの仕出し屋「福寿」の弁当が並んでいる。M子が注文し、支払いの手配もしたもの。

「滋賀工場に記者を案内して昼食をまたぐときには、『福寿』の2000円の弁当を手配するのが慣習になっている」

と、広報室の上司、Hに教えられていた。

「お金を広報室が負担するとはいっても、おちゃの用意、部屋の用意は、工場の総務担当がやってくれるのだから、ちゃんと、前もって声をかけて、『お世話になります』と伝えておくように」

といわれていた。

だからM子は、工場での取材日の5日前に弁当の注文を済ませ、3日前に、注文が間違いなく入っているかを確認、その後、工場の総務担当の女性に電話をかけ、工場長、副工場長の分を含めて、4つの弁当が、福寿から届くことを伝えてあった。

案内をしてくれる副工場長にも、そうした手配を済ませていることを、時間をあけて電話もしている。

同じ社内でのやり取りでも、お互いが気持ちよく仕事ができるように配慮するコツというものがある。

総務の女性は、工場長から副工場長から、弁当を受け取って配置するよう命じられるだけより、本社広報のM子から、「よろしくお願いします」と声をかけられたほうが、気持ちよく仕事ができるはずだ。

「社内での気配りを忘れるな」と、Hはしばしば言う。

広報室は、お金を儲けない部署だが、広報対応をひとつまちがうと、会社の命取りになる。

それを、会社のすみずみにまで理解してもらうには、「気配り」が大切なのだろう。

M子は、昼食の応接室まで歩いてくるときに、工場総務室の女性たちが、S記者に「いらっしゃいませ」と頭を下げる姿をみて、Hの教えの効果が、細かいところに現われていると感じた。

「工場見学、いかがでした?」

4人が席に着くと、T工場長が口を開いた。

「正直言って、驚きました」

Sの返答に、T工場長、Y工場長は満足そうにうなずいた。

「多機種をひとつのラインで流しているというのは、聞いていました。けれど、それでも、よくにた機種を一定の間まとめて流すのかと思っていました。ところが、まったく違うんですね・・・」

T工場長の顔は、「よくぞ気づいてくれました」と書いてあるような表情だ。

「そうなんですよ、多機種を流していると聞いても、本当にまったく異なるものを流しているとは、みなさん思われなくてね」

「多機種を流すことが簡単ではないことは、製造業の人間にはわかりますが、記者さんにもわかっていただけてうれしいです」

Y副工場長が、補足するように続いた。

「どうぞ、お食べになってください」

という工場長の合図で、弁当に手を付け、雑談しながらの食事は30分ほどかかった。

そろそろ、食事が終わりそうになったころを見計らって、ドアが鳴った。

「失礼します」と、コーヒーを盆に載せて、工場の総務担当の女性が入ってきた。

名札を見ると、U田と書いてある。M子が、弁当が届くことなどを電話で知らせておいた女性だった。M子と同世代に見える。

コーヒーはY工場長の手配なのだろう。U田にしてみれば、上司の命令に過ぎない。けれど、M子からも、電話で挨拶されているから、快く仕事ができるだろう。

ちょっとした電話で気配りをすることは、社内の潤滑油であると、M子は改めて感じていた。

N新聞S記者の、F工業滋賀工場での取材は、順調に進んだ。

すべてのスケジュールを手配した広報室員のM子は、胸をなでおろしていた。

正午を回り、工場見学は終了。午後の空気清浄機の取材に入る前に、工場長Tとともに昼食を取る時刻になった。

工場見学を案内した副工場長のYが案内したのは、総務棟にある応接室。テーブルの上には、弁当が4つ、おかれていた。

その弁当も、注文しておいたのはM子だった。


副工場長は、「Tを呼んで参ります」と出て行った。

Sと2人きりになった。何か話をしなければ・・・・・

「Sさん、工場ラインのこと、よくご存知なんですね」

とりあえず言ってみた。

「よく知ってる、といえるほどでもないけど、S社とはずいぶん違ったので驚いたよ」

「そんなに・・・」

「ああ、多品種を一つのラインで流すなんて、たいしたものだよ」

M子は、自分がほめられたような気持ちになった。

とんとん・・。ドアが開いた。

「お疲れ様でした。いかがでした?」

T工場長が、Y副工場長とともに、にこやかに入ってきた。Y副工場長から、S記者が滋賀工場が特異であることに気づき、ほめていたことを、報告されたに違いない。



工場見学が終わったのは、正午を回っていた。M子の予想に反して、製造ラインには、昼食時の一斉休憩はない。

「このラインは4交代制で休憩なしに動いています」

と副工場長は説明した。

前回、新入社員研修で見学したときにも、説明されたのかもしれない。けれど、まったく記憶になかった。

工場ラインで働くのは、とても大変なことなんだ。改めて思った。大学卒で本社にはいったM子は、恵まれている。

事務職、本社勤務も大変だが、夜勤がある製造現場を目の当たりにすると、自分の考えが甘いことに気づかされる。

大学に進学したのも、メーカーの総合職を選んだのも、よく考えてのことではなかった。

「なんとなく」・・・だった。

父が大卒だったし、短大卒の母も大学までいくことを強く勧めた。進学した公立高校では、ほぼ全員が大学を目指した。

進学しなかったらどうなるか・・・なんてことは、まったく考えなかった。

仮に、デザイナーになりたいとか、美容師になりたいとか、目標が別にあったなら、そういう選択もあったと思う。でも、そんな目標は、まったくなかった。

だから、周囲が公立高校に進学するといえば、それに従い、周囲が企業に就職するといえば、ともにめざし・・だった。

製造ラインで働いている同世代の女性たちをみながら、なにが彼女たちと自分の人生をわけたのだろうか、と思った。

同じ会社にいるのだから、工場ラインで働こうが、本社で働こうが、一緒と思えなくもない。

だが、工場ラインの人たちは、ほとんどが派遣会社から来ていることを知っている。給与体系がまったくことなっている。

自分が、考えて選び取った人生を歩んでいるわけでないように、ラインの人たちも、考えた末の選択だったと思えない。

それなのに、年収で、3~4割、もしかしたら6割も差がつくのかもしれない。同じ会社の中にいながら。

M子は、工場の建屋を出るときに、そんなことを考えていた。

「では、ご昼食は、応接室にご用意させていただいています」

副工場長は、S記者とM子を、工場長との昼食会場へと案内した。
F工業の滋賀工場を、広報室員のM子はS記者とともに見学していた。

この工場では、家庭用エアコンと、今回の取材ターゲットである空気清浄機を製造している。

F工業はもともと、業務用のエアコンメーカーだ。

M子は半年前、入社直後の社内研修で滋賀工場も見学している。ただ、あのときは、新入社員ということもあり、会社のこともよく知らないままに見学していた。

今回は、組織や歴史、製造品目などについても詳しくなっている。理解できることが多いと期待していた。

「こちらのラインでは、受託生産しているP社の製品も同時に流しています」

副工場長が説明している。

S記者は、感心したように口を開いた。

「このライン、すごいですね。大きさや品種がばらばらのものを一緒に流すのですか」

Sが驚く理由が、M子にはわからなかった。

副工場長は、「ええ。どちらか、他社さんのラインをご覧になったことがあるようですね」
と答え、よくぞ聞いてくれたといわんばかりに胸をそらせた。

「S社さんを見たことがありますが、6時間は決まった型の商品をいっせいに流し、切り替え作業をしてから、次の製品・・という、そんな方法でしたね」

「それが普通です。うちも、業務用ではそのやり方なんですが、家庭用では、多品種小ロットでないと需要にきめ細かく対応できないので、この製造ラインをつくりあげました」

副工場長によると、多品種小ロット生産のためのラインは、5年前に完成したという。

M子は、製造ラインについて、他社の事例を知らない。F工業のラインが、それほど特異なものだということが、ぴんとこなかった。

F工業の最新の家庭用エアコンには、空気清浄機能、除湿、加湿、はたまた肌を美しくする物質を出す機能までもある。

消費者はわがままなので、Aの機能はほしいがB機能はいらない、別の消費者はB機能こそほしい・・・・となる。その結果、多品種小ロット生産が必要になる。

見切り発車で決まった機能のものをたくさん生産すると、下手をするとメーカーが在庫を抱えてしまい、値崩れをおこす原因になる。

多品種小ロット生産を実現できる生産ラインを作り上げるため、滋賀工場の担当者たちは、日夜研究を重ねたのだと、副工場長は力をこめた。

「ぽいんとは、あの指示プレートですか」とSは聞いた。

副工場長は、また、うれしそうな顔になった。

よくみると、製造ラインのベルトコンベアと平行して、作業員の目の前につるされた板が流れてくる。

作業員はそれをひとつずつ見ている。次々と違う品種が流れてきても、その指示書をみれば、一目瞭然なのだろう。

「ベルトコンベアと完全に平行して、作業員の目の高さに指示書が流れる仕組みをつくるのは、結構難しいものでした。指示書は、瞬時に理解できるスタイルにしなければなりませんから、試行錯誤を繰り返しました」

副工場長は、試行錯誤の日々を思い出す様子で話した。そんな苦労も、こうして気づいてくれる人がいれば、報われるのだろうと、M子は思った。

他社の事情にも詳しい新聞記者を工場見学につれてくるということには、思わぬメリットがあることに気づいた。