2020年に入り、なぜか無性に

「新しいスタート地点に、立っている」

そう感じています。

 

 

時代の流れもあると思いますけど、ね。笑

 

 

 

新しい出会いが増えて、その度に

経歴を聞かれることが

増えているからかもしれません。

 

 

 

思えば、クライアントさんに対しては

「その人生ストーリーの中に宝物がある!」

根掘り葉掘りきまくっていますが、

私のストーリーを書いたことがありませんでした。

 

 

ですので、

この機に書いてみることにします。

 

 

 

今でこそ、ご縁にも仕事にも恵まれていますが、

ここに到るまでの私は、

あれこれ職を変えながら、回り道いーっぱいしてます。

 

 

そして、途中まで書いたら

恥ずかしいぐらいの狭量、不器用さ( ; ; )

 

 

出すか迷うレベルですが、決して、
一直線にここまできた訳じゃないからこそ、
感じていただけるものもあるかなって思います。

 

 

 

 

かなり長くなりそうなので、

数回に分けてお届けします。

 

 

起業のヒントになりそうなこととか、

今思う、やってよかったこと、

イマイチだったことなども、

できるだけ正直に書いていきますね。

 

 

 

ひたすら作ってた編集者時代。

 

 

私の大学生のときの夢、それは

「宝物になるような、美しい本の編集をしてみたい」でした。

 

 

そう思ったキッカケは、

京都で過ごした大学時代、

老舗の美術書出版社でアルバイトしたことでした。

(大学の100倍ぐらい熱心にバイトしてました!)

 

 

そのバイト先で見たのは、

アートブックの丁寧な編集現場

 

 

もともと、大学でも

「美学芸術学専攻」ということで、

アートにはそれなりに興味もあり。

 

 

本づくりというより、

芸術作品を作り上げるような編集作業に、

惚れこみました❤

 

 

 

そこで、私も

「編集をやりたい!」と思い、

就職活動ではいくつか出版社を受け、

大手教育通販出版社の(株)ベネッセコーポレーションに入社。

 

 

 

当時のベネッセには、

「美術書出版部」があったのです!

 

 

 

ですが、

入社の年に、バブル崩壊の影響で

美術書出版部はなくなりました^^;

(アートはこういうとき、一番にカットされますね)

 

 

 

私の配属先は、

ベネッセの主軸である中学生向け事業部の

「広告営業」の部門。

 

 

仕事は、広告の編集制作。

全国数百万件の家庭に発送されるDMやら、

予算数千万のキャンペーン制作などなど…。

 

 

↑広告営業やってた頃。

なぜかセピア色。私の髪、どうしたっ笑笑

そして机の上がカオス…

 

 

当時、ベネッセの広告営業は、

プロモーションを外部の広告代理店などに

出すことなく、社内で内省していました。

 

 

戦略立案からマーケ、取材、編集、発送関連まで、
担当1人が全部こなすという、

今思えば、びっくりな現場。

 

 

 

キレ者の先輩方に囲まれて、

「徹底的にお客様を見て、

属性に合わせ作り分ける」ことを叩き込まれました。

 

 

とにかく書いて修正して、書いて修正して…

終電で帰る日々。

 (しかも、仕事を家に持ち帰る。笑)

 

 

 

その後、4年目に「雑誌編集」部門に異動し

ここでも、高速でページを作りまくることに。

 

 

同僚に「ラフ(ページ)マシーン」と

言われた時期^^;

 

雑誌編集部門に異動。PCがでっかい!

 

 

 

グループリーダーにもなっても、

メンバーと一緒に、アイドル撮影、

巻頭特集、連載マンガ、付録雑誌・・・なんでも作ったなぁ。

 

 

 

 

超絶に忙しかったけど、

人がとてもよく、仕事もやりがいがあって、

大好きな職場でした。

 

 

今でもベネッセの同僚に会いますけど、

(みんな偉くなってます)

「あの頃はよく作ったよねー」って話に必ずなります^^

 

 

 

ただ、学生時代に描いていた

「宝物ような本を、作りたい」という

理想とは、かけ離れていました。

 

 

 

そこで、転職するなら20代のうちにと、

異動&昇進の内示をいただいたのをキッカケに

「大好きな職場ですが、夢があるので辞めます」と、退職の意思を伝えたのです。

 

↑辞める直前。

 

 

ちょうど、29歳の誕生日の直後でした。

 

 

でも、その夢は立ち消えました。

 

 

 

180度の急展開。自然療法の世界へ

 

 

退職の話をした1週間後、

母に癌が見つかり、余命半年の宣告。

 

 

冬の寒い日で、

風景の色がなくなったようでした。

 

 

母は50代前半でしたので、

「まだ早すぎる、絶対に助ける!」と決心しました。

 

 

当時はネット環境も今ほどではなく、

「編集の仕事をしながら情報を集めるのでは

母の命に間に合わない」と思い、

会社に退職も早めてもらい、急遽、結婚式も挙げました。

(元夫が、神対応してくれました)

 

 

「癌が治った」という情報を求めて、

代替療法を調べまくる毎日。

 

 

玄米菜食、冷えとり健康法、

びわ温灸、手当て法、健康食品…、

 

 

やれることはなんでも、やりました。

 

 

玄米菜食のマクロビオティックの

料理教室に通い、

母の病院に玄米弁当を作って届けたり、

 

 

関西にいい手当の先生がいると聞けば、

母を連れて1週間泊まり込みで手当てをずっとしていたり。

 

 

やれることがあるのが、嬉しかったのです。

 

この頃はスーパーに行くことはなく、いつも自然食のお店で買い物してました。

 

 

 

でも、このころの私は、

すっごくすっごく厳しい顔してたと思います。

 

 

母の命がかかっているからではありますが、

病院に「見捨てられた」と恨む気持ちもあり、

病院や薬と、戦っていました。

 

 

でも、その奮闘も虚しく

1年後の冬、母は、静かに他界しました。

 

 

私は「いい」というものを

あれもこれも母に押し付けて、

「ちゃんと母の気持ちに寄り添いていたのかな」と、思う時があります。

 

 

 

こわい顔をして、楽しんでいた自然な暮らし

 

 

母の他界から半年後、30歳で娘を出産しました。

 

 

その頃には、すっかり

「病院嫌いの健康オタク」に仕上がっていた私^^;

 

↑マクロビオティックの第一人者、

憧れの久司道夫先生にも会いに行きました。

 

 

 

助産院での出産、自然食、布おむつ、

完全母乳、ナチュラルクリーニング…と、

こだわりが止まらなくなっていました。

 

 

オーガニックのママ友も近所に何人もでき、

「いいと思うことをやっている自分」に満足する日々。

 

↑ベジタリアンのお料理教室。

(正面が私と娘)

 

 

 

でも、今思えば

「幸せ」や「心地よさ」からの

チョイスというより、

 

理屈で考えて、

便利さを敵のようにギラギラ見てました。

 


とっても狭量で、偏ってて、、、。

 

 

ギラギラ可愛くない状態で、

元夫の言葉も耳に届かず、

だんだんギクシャクしてしまいましたアセアセ

 

 

 

さらには、自然療法熱は止まること知らず、

さらに極めようと思い、

ドイツ発祥の自然療法「ホメオパシー」の

専門学校に通い始うことに。

 

 

 

 

 

4年と数百万かけて、

自然療法士「ホメオパス」の資格を取得。

(その後、自宅で自然療法サロンをオープン。)


 

「やりたいことを、やっている」

 そんな思いもあったけれど。

 

 

でも、、、このころの私は

母の看病をしてたときと同じように、

いつも険しい顔だったように思います。

 

 

「あれは食べたらダメ、これはいい」

「あの薬はダメ、こっちなら自然」など、

口には全部出さないけれど、

いつもジャッジをして、

心で否定語をつぶやく自分がいました。

 

 

そんな自分の偏った思い込みに、

否応なく気づかされる大事件が起こりました。

 

 

 

続きは次回。

 

 

Vol.2 信じたものが、ガラガラと崩れる。自然療法サロンと離婚と。