戦争体験談、聞いたことある?

 

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昨日は父の体験を記事にし
たくさんのコメントをいただき
ありがとうございました
みなさんのコメントに
胸が熱くなりました
 
 
今日、終戦記念日に
母の体験を書こうと思います
 
 
 
母が8歳になったばかりの
1945年3月10日
突如鳴り響いた空襲警報
その時家には
母と3歳の弟しかいませんでした
 
 
幼い弟の手をひいて外に飛び出すと
慌てふためき走り回る大人たち
 
 
逃げろ!
火を消せ!
 
 
あちこちから上がる怒号
 
 
驚く暇もなく
近くに落ちた焼夷弾の熱に押されるように
弟を引っ張って
走り出した母
 
 
どこに行っていいのかもわからずに
やみくもに走り回り
 
いつしか小学校にたどり着きました
 
 
みんなが体育館に逃げ込み
母も弟と共に体育館に入り
抱き合って
外の轟音に怯えていました
 
 
そこに、見ず知らずのおじさんが現れ
 
みんな出ろ!
こんなところにいたら死ぬぞ!
出ろ!
 
と叫んだのです
 
 
体育館にいた人々は
誰も耳を貸しません
 
外は火の海だ!
出たら死ぬんだ!
 
体育館にいた人々が
怒鳴り返しました
 
母にも
 
ここにいろ!
 
と言います
 
母はどうしていいのかわからずに
弟を抱きしめていました
 
 
見知らぬおじさんは
強引に母の手を握ると
 
母と弟を連れて
体育館から走り出ました
 
 
外に出て
おじさんを見上げようとした瞬間
 
体育館に大量の焼夷弾が落ち
一気に燃え上がりました
 
 
爆風と熱気で弟を抱えたまま
ゴロゴロと転がり
気づくと、おじさんはどこにもいませんでした
 
 
体育館から
燃え上がる人が次々に走り出て
倒れていきました
 
 
見知らぬおじさんに
連れ出されなければ
母も弟も焼け死んでいたでしょう
 
母は弟の手を離さぬよう握りしめ
必死に走りました
どこを走っているのかもわからず
ただ走り続けました
 
 
熱さで川に飛びこむ人々
川を見ると
既に水面が見えないほど
焼けただれた人が浮かんでいました
 
その人たちに折り重なるように
次々と人が飛び込んでいきます
 
 
まだ幼い母が
さらに幼い弟を連れて
生き延びられたのは
奇跡だったと思います
 
 
 
その後、母は疎開するのですが
学校にお弁当を持って行くことができず
いつもお腹を空かせていました
時々、父親(私の祖父)が東京から持ってきてくれる
味噌パンを少しずつ食べて
生き延びたそう
 
疎開先の子供たちは
母の味噌パンが珍しく
味噌パンとお弁当を交換してくれと
ご飯がぎっしり詰まったお弁当を持ってきたと
それが、やせ細っていつもお腹を空かせていた母には
有難かったと言っていました
 
 
 
終戦記念日に
そんな話をしながら
すいとんを作ってくれた母
今も元気でいてくれてる母
父の分まで長生きしてほしい
 
 
私は父と母の子供として生まれて
とても幸せです
 
 
 
ちなみに
いまだに味噌パンを見かけては
懐かしいと言って
買っている母です照れ