貧すれば鈍すの作家M
私は子供のパパと共に、かねてから元東京地検のエースで現在許永中被告の共犯とされている田中森一弁護士の無罪を信じて応援してきた。田中弁護士はつい先ごろ幻冬舎から「反転」という自伝を出されて、また色々な雑誌などにも登場している。
パパの方は田中弁護士とはそれこそ昔からの古いつきあいである。万が一田中弁護士が服役するようなことになっても、出所後の相談には乗るつもりであった。
その田中弁護士に自称アウトローで作家のMがアプローチして対談を申し込んだという。講談社→幻冬舎という順序で申し込まれた為、よくMの人物、それから我が家とMの因縁を知らない田中弁護士は引き受けてしまったそうだ。我々がMと田中先生の対談を知ったのは昨晩のこと。田中先生はMの人となりを知っていたら断っていたのにという。Mとの対談形式はやめて雑誌社に一方的に話す形にしましょうかとのことだった。
私と作家Mとのことは以前ここの日記でも簡単に触れたが、付き合っていたころ散々な目にあわされた。私はもともとMのファンクラブに入っていたのだが、Mから猛アタックされて他のファンクラブの人達に解らないように付き合っていた。ところが私とのことがファンクラブの皆にバレそうになると、Mは慌てふためいた挙句、私に涙を流して泣きつき「ファンクラブの女に手を出したと知れたら、もう皆、俺のことを尊敬してくなる。そしたら俺はおしまいだ」「お願いだから、二度とファンクラブの前には姿を現さないでくれ。お前の姿を見て、皆が想像したり、皆が俺のことを影で何か思ったりするのが耐えられないんだ」などと、とても日頃の肝のすわったアウトロー的なパフォーマンスと程遠い軟弱さで、二度とファンクラブに顔を出すなと懇願された。
Mはとにかく他人からえらいと思われたい、尊敬されたい、というみみっちい願望の強い人。素の自分では勝負できないのだ。私はMが哀れだったので二度とファンクラブには顔を出さないと約束した。
それでもMは私のいないところで、仮に私の話題が出ても「誰が誰と付き合おうが、お前たちには関係のない話だろ。この話はこれで一切やめよう」くらいの男らしい態度はとっているのだろうと、思い込んでいた。そのときはまだ、Mはきっとそういう男の人だと信じていたのだ。
ところがMは私が出なくなったファンクラブで、私のことを頭がおかしくなっていて、一方的にMのことを好きになった私がMと交際していると妄想している、「可哀想だからそう思わせてやっておいてくれ」と言っていたのだ。たまたまファンクラブの一人に行き合わせた際、私のことをM自身がそう言っていると教えられて驚いたのである。その間も勿論、私とMは付き合っていた。外では私のことをそんな風に言い、家にくると今度はファンクラブの特定の名前を出して「○○は時間にルーズ、あれは一生駄目だね」とかニートの人に対しても「あれは駄目だね」と言ったりMは私にファンクラブの皆の悪口を言ってくる。とにかく上から目線の「駄目だね」が口癖である。そして私への口癖は「日陰の愛が一番強い」であった。
今でこそパパと当時を振り返り「日陰の愛が一番強い」とはMなりによく考えた言葉だったんだろうね、と笑えるようになったが。
まあMはあっちでこう言い、こっちでこう言うの典型と思っていい。
別れ際にはなんと私はMから200万円要求されたのである。その頃Mはタイで市民団体か何かから訴えられていて200万円用立てなければいけないとかそんな理由を持ち出していた。勿論断ったがなんともみっともない話。
別れてからも、なんだか私の周囲をMがちょろちょろうろつく。去年の日記にちょうどその頃の経緯を書いているが、Mから「山口組90年史」を書きたいので協力して下さいとなんとパパに頼んできたのである。パパは当然断った。しかし、パパは私とパパがつきあっているのを知っていて、周辺にあわられるのはなんとも未練がましいと憤慨していた。偶然じゃないの?と私は答えていたが、うっとうしいなというのも本音であった。
ここ暫く親子3人、沖縄に行ったり北海道にいったり平和な日を送っていたが、ここにきてMは田中弁護士に急接近である。当然私たち一家が田中弁護士を応援、勿論服役なさった場合のその後も踏まえてつきあっているのをご存知で接近しきたはず。本当にこうなるとパパの「Mのやつ未練がましいやっちゃな」というのが当たりそうである。
確か前のブログにも書いたと思うが、Mもすっぱり縁を切ればいいじゃないか。別れてるんだから。なんでうちらの特に親しいところを狙ってうろちょろするんだろうね。
母親になって思うこと
取材、取材で家を空けることの多かった今月。漠然と子供が1歳になる頃くらいまで仕事はできないかなあと思っていたが、とてもとても有難いことに文筆の仕事が何本か舞い込んできた。これはもう駆け出し以前の靴を履いた時点くらいで思わぬ妊娠・出産でパッタリと休業してしまった私にとっては、涙が出るほど嬉しい話だ。こうした展開には自分勝手に「これはこの仕事だけは私にやれと運命が言っているのだな」などど調子よく解釈して、その仕事にえにしを感じつつ精を出す毎日である。
と、なるはずなのだが、しかし、これがなかなか精が思うように出ない。
やっぱり乳児って3時間おきに母乳を飲むし、オムツ替え、抱っこ。日によっては昼夜の別なく泣く。ノンストップでお世話が続く。合間に山のような洗濯。お掃除。自分の食事なんて取る暇がない。一日一食なんてこともざら。一体いつ仕事できるの?なのである。それで最近は取材などで外出する時間以外にも、ベビーシッターに来てもらい赤ちゃんの面倒をみてもらうようになった。それでも一日5、6時間のシッターでは足りない、贅沢をいえば8時間くらいは通して入ってもらわないと仕事にならないなんて思う日々である。
さて、こうした現実に向き合って初めて少子化問題なんかも身近に感じる。私は赤ちゃんのパパのお陰で経済的に恵まれている。上の話なんかはまさに私の身勝手なお話である。だが経済的事情で働かざるをえない母親も多い。保育園に預ければいいと思うかもしれないが、保育園は0歳児からOKのところだって6ヶ月過ぎないと預からないところがほとんど。いや全てといっていいくらい。6ヶ月以内の子供を預かる許認可保育園は存在しない区がほとんど。一方母親になった女性への処遇であるが、どこまで世間に認知されているか解らないが、正社員の立場にあった女性でも妊娠したことで退職勧奨を受けたり、不利益な配置転換をして退職に追い込もうとされたりということがよくあるのだ。
一番の問題点は企業の方が、そうしたことをいた仕方ないと思ってしまうところ。それだけ妊娠で長期休暇を取ったり育児休暇を取る人間を抱えていられるだけの懐の深さがあらゆる企業になくなっているということだろう。これは妊娠に限らず、傷病などで長期休暇を取らざるを得なくなった人物に対してもそうである。景気が良くなったと実感している人なんてほとんどいないと思うが、まあ良くなったんだとして、それでも私には人も会社も社会も、走り続けて苦しげに喘いでいるようにしか見えない。
えらそうに言う私もかつては「働きたい母親」に非常に冷たかった。
私は以前アパレル会社に勤務しており、面接して採用不採用を判断する立場にいた。履歴書で子供がいることが解ると、一応面接はするものの面接の前から採用する気は無くなってしまう。例えばいつでも残業ができる人かどうか、前もって何日が残業日でその日は大丈夫なんてのは駄目なのである。例えば月末はまず残業になるけど、それ以外に突発的な残業、今日の今日言ってOKできる人が当然採用されるのだ。「子供が熱を出した場合は、すみませんが突然休むこともあります」なんて言われると(…なんちゅうずうずうしいこと言う女だ、これだから子供のいる奴は…近所でパートでも探すしかないんじゃないの)と本気で思っていた。子供が熱出したら休むなんて、そんなこと言えるのは仕事人としての自覚がないから、腹の底からそう思っていた。
だが、現実に子供が熱を出すと預かってくれるところはどこにもないということを、子供を持って初めて知ったのである。保育園も病気の子供は預からない。行政の福祉関係を見ても病気の子供は預からない。わずかに病児保育をやっているところは、病気の直りかけた子供という条件が必ずつく。
結局子供が病気になるたび母親が仕事を休むしかなくなるということだ。母親としてはそれが当然の義務だろうが、じゃあ果してそういう母親を雇うところがあるかというと、それは難しい。同じ賃金なら休む可能性が極力無い人間、ばっちり労働力になる人間を取るのが会社。
私が面接で落とした人の中には離婚して母子家庭となっている女性もいた。子供を抱えながら必死で仕事を探していたのかなあと今にして思う。深く反省するところだが、やっぱりその女性は採用されなくてよかったとも思う。現実、残業の多い職場であったし、突発の欠勤は許されないような職場だった。入ったところで辛い思いをするだけだったと思う。
子供がいて、働かざるをえなくて母親が働こうとする場合、今のこの国ではとても困難だ。ほとんど雇用形態はパートに限られてしまうだろう。
玄人
2月18日の府中、ブルーコンコルドは惜しくも2着。その後新宿のパークハイアット東京で同馬の祝賀パーティーに出席。赤ちゃんにとっては初の長丁場のおでかけとなった。ぐずることなく手のかからない息子に感謝。パパも息子を抱いて、パドックでは赤ちゃんの帽子を旗のようにふりながら、幸騎手に大きな声援。童心にかえったような笑顔だった。
さて、どの職業でも華やかな表の姿と別の顔があるものだが、騎手という職業もまた大変なものだろう。勝負の厳しさは言うに及ばず、減量しかり、ファンサービス、関係者との付き合いしかり。
18日はレースの後に宴席があったが、終始にこやかな笑顔で歓談や記念写真に応じる幸騎手に感銘を受けた。一番人気のブルーが2着になったことで、欠席したり早退したり落胆の色を見せたりすることもなく、人と話す気分ではないなどとも微塵も感じさせない。少しスランプ気味なのでは、という声もあった幸騎手だが、本人が当日のレースをどう受け止めたかはさて置いて・・・。レースの出来不出来の内面を見せることなく、勝負の場から社交の場へスイッチを切り替えて、感じよくスマートに社交をこなすジョッキーに競馬界で生きる玄人のたくましい精神を見た気がする。
ブルーコンコルド、今日走ります
走るのは馬ばかりではない。「東京マラソン2007」が今日開催されている。そう、人間も走るのだ。当然東京マラソンに伴ない交通規制が周辺道路で実施されるってことで、困りましたな…。走るのはランナーばかりではない。そう、車も走るのだ。
今日はこれから車で府中競馬場に移動。馬主席で競馬観戦です。その後、ブルーコンコルドMVP受賞の祝賀パーティーへ。
ブルーコンコルドが明日走ります
しょっぱなから宣伝です。明日は稼ぎ頭のブルーコンコルドが走りますので競馬好きの方はよろしくお願い致します。
さて、今日は6時半、パパをゴルフに送り出してようやくホッと一息つける時間。6時半は比較的遅い出発。早いときは5時出なんて日も続く。パパは必ず出発1時間半前から朝御飯をしっかり食べる人なので、ママの朝は朝食の準備に追われて戦争なのだ。朝御飯を食べる習慣の無かった私はパパと付き合いだして、パパの体第一にしっかり朝御飯を作るようになった。御出汁も鰹節、昆布、干し椎茸と、およそ体によろしいものをふんだんに使って、魚、海草、緑黄色野菜中心の朝御飯。パパの体を思ってのことが、それがそのまま私の生活習慣改善にもなっていた。まさか妊娠、出産するとは思っていなかったが、妊娠する前からしっかり朝御飯を食べるようになっていたのが赤ちゃんにも好影響してたみたい。まあ元気の良いこと。
元気の良いのは嬉しいのだが、体を動かすのが好きで、最近は一緒に遊びたがりママはますます時間が無い。よくできたもので、洗濯や食事の支度などにはそんなにぐずらないのが、パソコンしたり本や資料を読んだり・・・を始めた途端、泣く泣く。それでも続けようものなら叫ぶように泣く。何故パソコンや読み物は泣きが激しいのだろう。洗濯、炊事と違って生活音がしないのが原因なのかなあ。とにかく5分と続けて読み物、パソコンができない。やっと寝かしつけて自分の時間ができたと思うと、なんか察知するのか、パッと目を覚まして泣く。眠った赤ちゃんの部屋を暗くして別の部屋で読書しようとしても、ママがいないことに気付いて火のついたように泣く。ママは5分と集中できないのだ。
でも今日発見。朝のパパを送り出してからの時間が結構自由な自分の時間になるみたい。これも最近赤ちゃんが夜の1時頃から朝8時頃まではまとめて眠ってくれるようになったから。生まれたての赤ちゃんは2~3時間おきに授乳の時間なので、日中、深夜とわずママは3時間以上まとめて眠ることが出来ないのだが、いつのまにか夜まとめて眠る時間が長くなってきた。こうやって少しずつ赤ちゃんは成長していくんだなぁぁ。いつか時間がない、時間がない、なんてずっと赤ちゃんに独占されてた日々のことを懐かしく思い出すのだろう。
ところで、パパはゴルフで朝早いことを「ママごめんね、ごめんね」と言ってくれるのだけど、朝御飯も、早起きも、ママにはとっても好い結果となっている。
連続発砲事件 関連先太田会について聞いた昔語りの断片
8日に手打ちしたことが解った山口組と住吉会の連続発砲事件。発砲された事務所の一つが太田会系の事務所だったそうです。太田会のトップは太田守正会長。
私が聞いた昔昔の話です。大阪の生野周辺を縄張りにする浪速会という愚連隊がありました。浪速会の会長は浪速トクジさんといい現在はカタギの方です。会長に次ぐナンバー2がサージの愛称で有名な、平成8年梅田駅前の路上で射殺された生島久次氏。ナンバー3の舎弟頭が太田守正氏、現在の太田会会長であったとされています。
昭和46年ごろ、生島久次氏は紹介で山口組菅谷組に入り生島組組長となります。菅谷組傘下となったことで、従前のこげつきが次々と回収され生島組は
ところで、生島組長の菅谷組入りはかつての浪速会の同胞、ナンバー2、ナンバー3の命運を分けることにもなったそうです。生島組長が菅谷組に入ったことで当然ナンバー3であった太田会長も菅谷組に入るだろうと目されていました。また太田会長本人もそう願っていたようです。しかし一向に生島組長が太田会長の参入を口利きする兆しがない。どうも生島組長は意図的に太田会長をはずし、力が自分ひとりに集中するようにしたのではないかというのは当時をよく知る人の話です。ここから太田会長は苦労を重ねられたようです。その後太田会長は山口組内山健組に入り実力者になっていったそうですが。
後に口述で伝え聞き、語られるときには「苦労を重ねた…」「不遇の時代が続いた…」なんて一言でくくられてしまいますが、金が全て、力が全てという側面もまた持っているヤクザ社会でのしあがっていくのには相当な知恵、度胸、人望も要ったのではないでしょうか。
私は昔から、本当に根性のあるヤツは何度他人から蹴落とされても、どんなに運に見放されても、いつかなんらかの形で、必ず這い上がってくるんだ、そう思っています。
安倍総理は失言した柳沢大臣に再チャレンジの機械、おっと機会を与えたいみたいですね
昨日は西新宿のパパの友人のオフィスへ親子3人でご挨拶に出かけた。お天気もよくお出かけ日和といいたいところだが、あんまりにも子供が小さいとお天気の良さも関係ない。どこか寄り道できるわけでもなくオフィスのまん前に車を停めて、ご挨拶してまた家にとんぼがえり。赤ちゃんとの幸せなだけじゃないおそろしく慌しい毎日にも、パパのフォローや愛情があるからお母さんは頑張れるのだ。男の人は女の人を「子供を産む機械」なんて言っちゃだめですよねえ。
ところで柳沢大臣、「機械はこんなに恐くねえ」と今頃になって腹の中で思っていることでしょう。女を怒らしてボコボコにされてる観があります。安倍総理いいんだろうか柳沢大臣を切らなくて。「美しい国づくり」という小学生の作文コンクールのテーマかと思うような目標に反しないのかなあ。
裁判、やらなきゃソンソン
24日、東京簡易裁判所に出向きビックリ。何にビックリしたかというと報道陣の多さにである。えっ一体なんで?これが東京地裁、高裁なら報道陣でごったがえすことはよくあることだが。
実は昨日はNHK受信料督促訴訟の口頭弁論が行われていたのだった。
http://headlines.yahoo.co.jp/videonews/fnn/20070124/20070124-00000194-fnn-soci.html
簡易裁判所マターの訴訟では異例のメディアの反応。やっぱり督促の内容がNHKの受信料となるとがぜん社会性帯びますもんね。それにしても一瞬、地裁の方と建物間違えてしまったかと思いましたよ…
私の方の裁判はぐっと庶民的かつセコイ「金かえせ~」訴訟でございます。まさしく簡易裁判所マターです。私は去年地裁での裁判が和解したばかり。今回は簡易裁判ですがまた裁判やるとは思ってもみなかった。でも日本人ももっと積極的に裁判という制度を活用すればいいのにとも思います。
明日26日も傍聴するだけだがまたまた裁判所。赤ちゃんお留守番ごめんね。
親戚と年賀状 知人と年賀状
赤ちゃんをお風呂に入れて・・・はじめてホッと一息つける時間。とはいっても今度は「お腹すいたあ」の泣き声でまたすぐ赤ちゃんにかかりきりになるのです。
さて、この赤ちゃんの存在、親戚は誰一人知らなかった。赤ちゃんが産まれてすっかり親ばかになった私が出した赤ちゃんの写真入年賀状を見て吃驚仰天したとともに呆れ果てたことであろう。親戚の、「正月そうそう、なんて不吉な…、またあそこの娘が…」とつぶやく声が聞こえてきそうである…。
というのも私は2回も、というか、2回しか、なのだが結婚と離婚をしている。それだけでも親戚にとっては変わり者の馬鹿娘なのだが、それに留まることなくもっともっと馬鹿が発揮されて、今度は未婚の母になってしまったのだ。
もっとも親戚には、2回結婚して2回お祝い金を頂いているのですよね。離婚するからといってお祝い金の返却があるわけではないし。しかも2回目の結婚はお祝い金を奮発して下さったその4ヵ月後に離婚していたのである。やっぱり馬鹿娘ということになりますか…
それも馬鹿は私一代のことではなく父もまた家族を捨て女とトンズラ(愛の逃避行ともいう)するような人。父の職業は画家でそもそも画家なんて職業に就くことが親戚から見たら大馬鹿者なんである。その上父は自他共に認めるエゴイストで喧嘩っぱやく私が幼少のみぎりから冠婚葬祭があるたびに親戚と一悶着起すのが常だった。父娘揃って親戚からみたら理解不能でしょう。
赤ちゃんの写真入年賀状送りたいので住所を確認するため電話したら、「えっ!!!子供が出来たのか!年賀状なんて要らないよ。要らない。要らない」と遠慮されたり
出した親戚からは「もうあなたとも会うことはないでしょう」という丁寧なお返事もきた。
一方、知人の皆様にはなんだかすごーく受けがよかった。なかでもターザン山本さんからの年賀状。私の妊娠、出産は昨年のMVPですって。「猪突→母性」なんてお言葉もイノシシのイラストに添えて下さっている。他の皆様だって「超ウルトラ・ビッグ・サプライズの上」や「爽やかな驚き」「かわいい赤ちゃんですね」などなど…素晴らしい表現が並ぶ。我が親戚よ、他人がゆえのこの度量の広さと暖かき心を見習うのだ。
便りが無いのは無事の証拠などと言いますが、親戚のみんなは暫く無音だったこの私が落ち着いたとでも思っていたのかしら?まあ正月そうそう親戚には縁起のいい年賀状を送れたことだし、これからも親戚一同の期待を裏切らぬよう、どんどん驚かせてやる!!
ブルーコンコルドが年間最優秀馬に。
ブルーコンコルドが最優秀馬に選ばれた。ブルーコンコルド所属の愛馬会は私の会社が筆頭株主になり経営権を持っている。これでまた会に会員が増えてほしいと思う。
私は生きるすべとして競馬に多少なりとも携わるようになった。携わるなんて言葉を使うのもおこがましい、まだまだかじった内にも入らないくらいの関わりようなのだが、競馬といえば必ず頭をよぎる一人の友達がいる。Y君。Y君に初めて会ったときはY君が大学生のときだった。Y君はものすごく馬と競馬が好きで、大学を卒業したY君は競馬関連の出版社に入った。
その頃、競馬とは無縁の私との繋がりはもっぱら本だった。お互い読書好き。人があまり読まない南米の作家についても、あれやこれや話ができる子だった。
そのY君、私がすこーし競馬の世界に首をつっこみかけたら、彼はもう競馬の出版関係は辞めていて萌え~~の世界にどっぷり首までつかっていたのだった。年末年始も秋葉原の取材に奔走していたそうで。
Y君には昔助けてもらったことがある。当時私は勤めていた会社を内部告発した報復に解雇されたのだ。私が解雇無効の裁判を起した時、Y君は私を応援するサイトを無償で管理運営してくれたのである。その企業、イメージをこよなく大切にしなければいけない某ブランドだったものだから、不当解雇を糾弾するサイトの存在は相当痛かったはず。
最終的に会社は私に1000万円もの和解金を支払った。しかし解決まで2年もの月日がかかり、応援するといっていた人達が一人去り二人去りとする中で、組織相手にたった一人で闘う私を彼は最後まで一貫して応援し続けてくれた。仕事は徹夜続きの忙しい中、支援サイトも最初から最後まで手を抜くことなく頻繁に更新してくれたのである。
弁護士も絶賛するほど、そのサイトの出来があんまり素晴らしかったので、紛争解決後も他の係争中の方々から、有償で構わないのでサイトを作ってもらえないかと彼に打診が行ったほど。でもY君は二度とやらなかった。私の応援サイトを作って運営してくれたのはビジネスとしてじゃない。友達だからだったのだ。
Y君、今でも時々競馬のこと教えてくれるY君、やっぱり馬のいる世界がY君にはピッタリのような気がするんだけど。戻ってはこないのかなあ。
そういえば私の裁判応援サイト、管理人としてのY君の名は「流星」だった。馬の眉間を走る流星。にくいネーミングだねえ。
