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Maloch Diary

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文化人類学入門Ⅰ

はじめに「人はなぜ服を着るのか」という質問は、第1回目の講義で先生が私たちに投げかけた最初の質問でした。私は、そのとき「服を着るという文化があり、また寒さから身体を守るためにも服をきることは当然の行為である。」と答えました。しかし、この答えには疑問点がたくさんあり、曖昧なものでしかありませんでした。例えば、服を着る文化とは何か、夏の暑い日でも服を着るのはなぜかなどです。結局「人はなぜ服を着るのか」の答えは、「ヒトとケモノに差異をつけるため」でした。私たちヒトは日常において衣服を身につけています。世界中のどの民族を見ても何かしらの衣服を身につけていると先生はおっしゃいました。それに対し、ヒト以外の動物(ケモノ)は衣服を身につけていません。確かにここにヒトとケモノの間に差異が生まれました。ではなぜケモノは、衣服などを身につけないのにヒトは衣服を身につけるのでしょうか。それは、ヒトはケモノと違って、他のヒトに見られて恥ずかしいと思ったり、他のヒトによく見られたいという願望があったりするからではないでしょうか。そもそもヒトの身体というものは、ヒトが想像するもの、つまり<像(イメージ)>でしかなく、ヒトはいつも<像>としての身体のもろさを補強するために、衣服を着て、また化粧をして身体に境目をつけようとします。例えばスカートの丈はどのくらいにするか、くるぶしは出すか、膝も出すか、太ももを露出するか。また、化粧においては口紅で唇をその周辺から切り取る。目の周りをアイラインで縁取る。その他、揉み上げや髭のデザイン、マニキュア、ネックレスやブレスレットなどにも、身体を象徴的に切断するという面があります。このように身体の表面に線を引き、それを塗り分け、いくつかに分割することで、そこに意味を呼び込みます。こうすることによってヒトは他のヒトの目線が身体や顔にいくようにしむけているのです。ところが、ヒトの身体には自分には見えない箇所も多々あります。また、顔をいくら一生懸命いじってもあまり代わり映えせず、見せたくないにもかかわらず隠しきれないのです。そこで、ヒトは身体に無数の境目をつけるようになったのです。今日、服を着ること、化粧をすることはごく当たり前の行為となり、服を着なければ警察に捕まるという国家権力のしばりにとらわれ、化粧をしなければ恥ずかしさから逃れることができないという症状におかされ、それらから解放されたときヒトは一瞬にしてケモノと化します。では、ヒトは何を隠すひつようがあり何を見せてもよいのか、そもそも隠すべき部分というものはあったのでしょうか。実は、隠す部分はどこだっていいといえます。身体にはもともと恥ずかしいなどというものはありえないのです。ヒトがここを隠さなければならないという解釈が、恥ずかしいという感情を生み出しているのです。なぜヒトは服を着るようになったのでしょうか。身体の保護やきれいにみせるためなのでしょうか。一概にそうとは言えません。衣服の形や構造を見てみるとハイヒールやコルセットなどは明らかに身体を痛めつけていて、保護とは正反対に作用しています。一部の服や靴は身体に合わせて作られたものではないということになるので、衣服は身体を保護するものという考え方では説明がつかないのです。先に述べたように、ケモノは衣服を着ないし、ましてや化粧などしません。そこで「隠すべきものはなにもない」ことをケモノとすると、それを隠すことがヒトであるということになります。「隠すべきものは何もない」ことを隠す。ここで一つの例として、サスペンスドラマをあげましょう。サスペンスの楽しみというものは最後に事件の真相が明らかになるということです。しかし、物語の結末、ことの真相、最終的な心理というものは、じつを言うと、暴露されてしまえばたいして意味のない場合がほとんどなのです。大事なことは、もうすぐ結末にたどりつくぞ、真相がいますぐ明らかになるぞ、という気分をたえずかきたてること、つまりドキドキワクワクすることなのです。これとヒトが服を着飾り、化粧をして隠していることは同様の意味があるのではないかと考えます。やはり、ヒトは<像>として存在し、服で自分自身を隠し、他のヒトの想像力を誘導し、真に隠さなければならないことに意識が向かないようにいくつかを分らないように隠すわけです。
次に、「一着の服を選ぶことが、生活を選ぶとはどういうことか」について、ここで「服を選ぶ」こと=「制服をえらぶ」ことと考えることにします。制服といえば儀式や競技、労働や教育の場につきものです。警官やガードマンや車掌など、市民の安全にかかわる公的職業を表す制服や、スポーツウェアのような競技用のユニフォームなど精神の緊張・集中が必要なとき、私たちは決まったように制服を着用します。さて、これが制服の表の顔だとしたら、制服にはもうひとつ、裏の顔とでもいうべきものがあります。それは、ヒトの<存在>を<属性>に還元するということです。例えば、学生の場合を考えてみましょう。私たちの国では変形の学生服というものがおそらく最初のファッションになるはずです。生徒手帳の模範通りに制服を着ている生徒はほとんど居ないと思います。なぜなら、時代への違和、時代から掃き出されているようなやりきれない気分が理由もわからないまま気分に、動作に、身体の表面に出てしまうからです。学生は制服を着崩し、学校の支配者である教師にたったひとりでも反乱を起こします。どこまで着崩したら怒られるのか、自らの身体をもって確認していくのです。ただし、これは抵抗のための抵抗としてなされるのではなく、自分が誰なのかを確認したいというギリギリの行為としておこなわれるのです。このようにして、わざとみすぼらしいかっこうをしたり、わざとだぶだぶの服を着たり、わざときたならしい服を着たり、というふうに私たちは型を崩してしまうのだが、私たちの意識というものは一筋縄ではいかないものであり、つっぱりながらも、みっともないと感じそういう照れが逆により一層、見かけのだらしなさやいかがわしさを煽ったりするものです。このように変形のファッションによって私たちは服を着替えて自分のイメージを揺さぶり、自分が誰なのか確かめようとするのです。またヒトは、正しい型にはまった制服を身に付けたときに周りのヒトと同じであることを嫌い、自己主張するためにもその制服を着崩して着ます。以上のことから、制服とは私たちをがんじがらめに拘束するかと思えば、時にヒトをディープに誘惑する装置でもあり、また「自分」というものについてのガチガチになった固定観念を緩めてくれるかと思えば、散らばった気持ちをぐっと引き締めてくれもする装置であるのです。このように制服にはいろいろな効果が隠されています。この制服をちぐはぐに着こなすということは、自分の存在がガチガチにまとまっていなくても、自分の中の自分を緩めたり、組み換えたりする「あそび」の空間があるということを表すということです。出来上がった「わたし」ではなく、「私が生まれたよりももっと遠いところ、そこまではまだ可能が可能のままであったところ」までいつでも一挙に引き返せる準備をするということです。しかし、逆に制服を着崩すことなく着るとします。するとヒトはたちまち型にはまったヒトになってしまいます。それによっつ、ヒトはちくはくさがいたたまれなくなるのです。制服とそれをきているヒトとがとてもアンバランスになってしまうからです。そして見ているものからすると身体のほうが服に収まりきれなくなって、はちきれそうな感じがするのです。以上のようなことから、「ちぐはぐさがいたたまれない」というのは、着崩した制服の着かたをするのではなくて、制服をそのまま着たときの自分自信と制服とのアンバランスな感覚にたえられなくなった状態をいっているのだとわたしは考えました。
私は、文化人類学入門 Ⅰを受講して、「人がなぜ服を着るのか」という最大の問題に対する答えを会得したことが大変自分にとってプラスになると考えます。今まで服を着ることは当たり前の行為であると思っていましたが、服を着ることの意図、ヒトのファッションに対する考え方などを学んだことで、服を着るという行為がとても不自然な行為とも考えられるようにもなりました。「ファッションとは、流行。まさに、流れる水のようにいつもざわめいていないといけない」という先生のこの言葉も非常に印象深かったです。この講義を通して、ちぐはぐであるということが決してマイナスの要素のみを持つのではなく、むしろ「あそび」の空間を与えてくれる大事なものであると感じました。したがって、これからも服を着るとき、また選ぶとき、ちぐはぐさというものも取り入れていきたいと思います。

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