7。音楽 徒歩人生
私の うちは 私がピアノを東京に習いに行き始めた頃は母は専業主婦に徹してくれていましたから 父の収入だけで全てと音楽にかかる費用も出していたくれたことになります。 それでも父はお酒が好きで子供にはよくわからない事情でお金の問題で 困ることがあったようです。 ある時 私が学校の家庭科の宿題をしようと思って ミシンのボックスを開けたら 本体が ケースごとありませんでした。 母が使っていたわけでもなさそうだし 尋ねたところ なんと 私のレッスン代の捻出のために 質屋さんに持って行ったというのです。 私は何とも言えない気分になりました。 母は私と違って几帳面に家計簿をつけていたし 領収書やレシートを貼り付けてパンパンに膨らんだ大学ノートも 山積みになっていて 節約 や 家計も一生懸命考えてくれていたのだと思いますが それでも 音楽にかける 費用は大変だったものと思われます。 学校の仕事はや私への教育はきちんと 几帳面にしてくれた父でしたが 実はその頃になると自分の本当にやりたかったこと 夢、希望について 色々思い悩むことがあったのだと思われます。
私の うちは 私がピアノを東京に習いに行き始めた頃は母は専業主婦に徹してくれていましたから 父の収入だけで全てと音楽にかかる費用も出していたくれたことになります。 それでも父はお酒が好きで子供にはよくわからない事情でお金の問題で 困ることがあったようです。 ある時 私が学校の家庭科の宿題をしようと思って ミシンのボックスを開けたら 本体が ケースごとありませんでした。 母が使っていたわけでもなさそうだし 尋ねたところ なんと 私のレッスン代の捻出のために 質屋さんに持って行ったというのです。 私は何とも言えない気分になりました。 母は私と違って几帳面に家計簿をつけていたし 領収書やレシートを貼り付けてパンパンに膨らんだ大学ノートも 山積みになっていて 節約 や 家計も一生懸命考えてくれていたのだと思いますが それでも 音楽にかける 費用は大変だったものと思われます。 学校の仕事はや私への教育はきちんと 几帳面にしてくれた父でしたが 実はその頃になると自分の本当にやりたかったこと 夢、希望について 色々思い悩むことがあったのだと思われます。
私は学校から家に帰るとまず おやつ、ピアノの練習 、そして父親が帰ってくると晩酌が始まりだんだんと性格が変化していきます。暴力を振るうことはあまりありませんでしたが 言葉の暴力が聞いていて恐ろしく、私は早くこの家から抜け出したいと思いました。 けれどもピアノが家にあるので家出をすることができない自分に 苛立ち、そして父をなるべく刺激しないようにこわごわ 接することしかできない母に対しても道理の通らぬ苛立ちを覚えました。 多分 母なりに色々な本を読んだり 人に相談したりして選んだ 対処方法だったと思います。 おそらく父は やっと音大に入って 作曲家としての 華々しい道を歩きたかったのでしょう。後に母は父は結婚するべきでなかったと言っていますが それと同時に母は父の才能に惚れたのだとも言っていました。 彼が学校の教員という道を選択したのはまず第一に 実家の困窮を救うため 一刻も早く定職につく必要があったためのようです 。その時には 育英会の奨学金を借りて 武蔵野音楽大学という音楽の私立大学でも高いところを卒業したわけですから奨学金の借金を担うのは大変でした。 けれども教職について何年か 勤め上げればその返済は免除されるということらしく そして たまたま 教育実習 大学4年生の時に訪れた銚子商業の校長先生にめちゃくちゃ惚れ込まれ、「 是非田仲光雄先生を 我が校の音楽の先生にお願いします」 と 音楽大学まで直談判されに来たらしいです。 今となっては考えられないことですが おそらく 巨人で活躍した篠塚選手も輩出したすでに高校野球で有名な高校でしたから ブラスバンドでも盛り上げたいという期待が高まっていたのでしょう。 父も苦学して卒業したのが 27歳でしたから新卒とはいえ、エネルギーも溢れ 何とかその 期待に応えたいとその 情熱を 全て 注ぎ込んだのです。 当初は 全員一緒の練習が当たり前だったというのですが 能率が悪く、 父は 分割して楽器ごとのパート練習を提案したところ 猛反発にあったらしいです。 がそれも乗り越えて 銚子商業のブラスバンドの基礎がしっかりと出来上がり、 それまで ブラスバンドのレパートリーには全くなかったクラシック曲にも挑戦し 母が言うには ベルリオーズで一躍、素晴らしい躍進を遂げたそうです。将来全国的な栄光に導く小澤先生も育て、一仕事終えた父ははた、 と本当は自分が何がしたかったのか 迷い始めたのでしょう。 同期の音楽仲間が音楽大学の教授になったり 本を出版したりしているのを横目に見ながら彼は相当 焦ったものと思われます。 そして家に帰れば いやいや 練習をやらされている感満載の娘のピアノに嫌気がさし、仕事のストレスでやけ酒を飲むという日々だったのだと思います。 彼のお気に入りは サントリーの角でした。 そんなある日、 東京でのレッスンに父がついてきた時、あの無口な青山先生に 青ざめた顔でこう切り出したのです。 もちろん その時は素面です。「 先生、私怖いんです。私 娘に越されるのが怖いんです」 私としては驚天動地の一言でした。 別にあなたを上回ってもいませんし いつも嫌味か怒られる ばっかじゃないですか? 何なら即やめてもいいんですけどと思った瞬間、 私の中で え、本当にあなたやめてもいいの ?と初めて自分の自我が 自分に問いかけました。続く