世界大恐慌(20世紀初頭)の不況を松下幸之助氏はどう乗り越えたか | 生命(いのち)を輝かせる言葉の森

世界大恐慌(20世紀初頭)の不況を松下幸之助氏はどう乗り越えたか

新型コロナウィルスの影響で世界各国の経済は厳しい状況に陥っています。
今から、100年前はちょうどスペイン風邪が流行し、しばらくして世界大恐慌が発生しています。
そんな中で、松下幸之助氏が直面した事態をどう打開されたのか、を知ることは今後の参考に必ずなると思います。

 

創業時(大正6年1917年、22歳)の苦労の後は、しばらく順調に社業を拡大できた松下幸之助氏でしたが、大きな壁に直面されたと伝わるのが昭和4年(1929年、35歳)からの世界恐慌でした。当時の日本では、企業倒産の増加だけでなく、倒産回避を目的とした工場閉鎖などによる失業者が一気に増えました(実際には当時の日本では農村から働きに出て来ていた人は実家に戻って農作業を手伝うなどしてなんとか生活していたようですが、それでも家族として生き延びるために子供を身売りさせるなどの悲劇が多く生まれた時代でもあります)


松下電器も売り上げが半分となり、年末には倉庫が在庫でいっぱいになる深刻な事態に襲われました。
当時、体調を崩していた幸之助氏は病気療養中でしたが、幹部から経営危機を乗り切るには、従業員を半減するしかないという意見具申を受けました。

 

 実は、この年の春に松下電器では、経営の綱領と信条を制定しています。


綱領 営利ト社会正義ノ調和ニ念慮シ 国家産業ノ発展ヲ図リ 社会生活ノ改善ト向上ヲ期ス
信条 向上発展ハ各員ノ和親協力ヲ得ルにアラザレバ難シ 各員自我ヲ捨テ互譲ノ精神ヲ以テ一致協力店務ニ服スルコト

 

この信条に鑑みれば、人員の削減は自らの言葉に不実となります。今後、ますます発展すべき松下電器であるのに、せっかく採用した従業員を解雇することは、経営信念の上にみずから動揺をきたすことになる。と幸之助氏は考え、次のような指示を出されています。

 

「生産は直ちに半減する。しかし、従業員は一人も解雇してはならない。工場は半日勤務として生産を半減するが、従業員には日給の全額を支給する。そのかわり店員は休日を返上して、全力を上げてストック品を販売すること」

 

この決定は即日全員に告げられ、みな快哉を叫んで賛成し、また、力を尽くして販売に努力することを誓い合った。驚くべきことに、二か月後にはストックは売りつくされ、半日操業をやめるのみならず、全力を挙げてフル生産を行わなければならないほどの活況を呈するようになった。

 

幸之助氏は、このときを振り返り、次のように述べられたそうです。
「この考えなり、その仕事ぶりなりが松下電器全員にとっても、どれだけ大きな体験となり信念となったかしれない。断じて行えば必ずものは成り立つという力強い信念が、このときに植え付けられたのであった。」 

 

出典は、一冊でわかる松下幸之助(PHP研究所編)などですが、一部歴史的資料も確認し文章を修正加筆しています。

 

当時の松下電器が生産していた商品が、電気プラグや電池式ランプであったり、電気アイロンであったりしたために従業員が手売りすることが可能であったという事情があったにせよ、人を活かす、全社員に光を当てるという一点において曇りのない判断であったからこそ、社員がそれに応じて素晴らしい働きができたということは間違いのないところだと思います。

 

それにしても信条を制定したその年のうちにこういう試練に出逢うというのも幸之助氏の人生を濃いものにしている気がします。