松下幸之助氏の丁稚奉公時代 | 生命(いのち)を輝かせる言葉の森

松下幸之助氏の丁稚奉公時代

パナソニックの創業者、松下幸之助氏は生家が没落したために、小学校を4年で中退を余儀なくされ、大阪の自転車屋に丁稚奉公をするという辛酸を幼いころから経験されました。
現代では考えられないようなことですが、貧しい家の子どもがこのように仕事を始めることは約100年前の当時はまだまだ一般的だったのです。

そのことを伝えるお話として、松翁論語(PHP研究所)の中には、次のような下りがあります。

(引用ここから)

自転車屋で奉公しているとき、寒い朝、冷たい水で手を真っ赤にしながら家の表のふき掃除をしていると、「行ってきます」という声が聞こえた。ふと見ると、向い側の家の同じ歳の子が学校に出かけるときだった。
実にうらやましく思った。
しかし、そのたびに、身分が違うのだ、望んでもかなわないことだ、あきらめなさいと心の中で言い、手を切る冷たい水でぞうきんをしぼったものだ。

(中略)

私は学校には行けなかったが、“船場大学”で得がたい勉強をした。
非常に大きな教育を受けたと思っている。

(引用ここまで)

幼心に自分と他人の立場の違いを感じた幸之助氏ですが、決して人生をあきらめていなかったことは、船場大学という言葉でわかります。

ちなみに船場は商都大阪の中心地で多くの商店が集中していました。
そこの大学とは、正に商売の本場の現場に身を置いて、毎日の生活、仕事から多くのことを学んだという回想なのです。

こういう心がいじけたり、ねじれてもおかしくない環境にいながら、そうならず、むしろ大きな教育を受けたと言える心が後年の松下幸之助氏の成功を導いたのだと感じられます。
上記の(中略)にある生き方そのものに思いを馳せたいものです。

ではまた。