禅の公案「婆子焼庵(ばすしょうあん)」について | 生命(いのち)を輝かせる言葉の森

禅の公案「婆子焼庵(ばすしょうあん)」について

私も含めて俗世間に生きていると、禅というものは特別のもののようなイメージが強いですね。

しかし、その世界をのぞいてみると、人間としてどう生きることが生命(いのち)を生かすことになるのかを深く問う姿勢に満ちていることに気づかされます。

(ちなみに以下の引用は、神渡良平氏のエッセイからです。若干元の公案と差異があります。関心のある方は、ネット上にもいくつかありますので参考にしてください)

 あるとき、あるお婆さんが町で托鉢をしていた若い雲水(修行中の僧)を見かけた。
この雲水は見所があると思い、家につれて帰り、庵を建ててやって、修行を支えた。
それから数年が経ち、だいぶ修行も進んだだろうと思い、身の回りの世話をしていた娘さんに言いつけた。

 「今日、給仕がすんだら、あの坊さんに抱きついてみろ。そしてこんなときにはどんな気持ちがするか聞いてこい」

 娘さんがお婆さんに言われた通りにしたところ、雲水は平然として答えた。

「古木寒巌に寄って三冬暖気なし」

 つまり、あなたがいくら言い寄っても、私はあなたを冷たい岩に生えている古木のようにしか感じない。そうして三年経っても動揺することはないと言った。

それを伝え聞いたお婆さんは糞坊主に無駄飯を食わしてしまったと怒り、雲水を叩き出し、庵も焼いてしまったという。

(引用ここまで)

公案というのは、では、このお婆さんにも納得できる、境地をどのように表現するか、お前ならどうするという問いです。

仏教は、自らの欲を捨てることを大事にしていますから、この雲水の言葉はあながち間違いではないように思います。
しかし、公案になっているということは、さらに上の境地があることを示唆しています。

修行者である雲水の毎日の生活(衣食住)も、実は人によって支えられています。
物欲を捨てつつも、物には支えられていることに気づくこと。
隠遁生活をしようとしても、100%人にも自然にも頼らずに生きていくことはできない人間であることに気づけば、まずは、いまこうして生命(いのち)あることへの感謝が湧き上がってくるはずです。

それは、大自然に対してかもしれませんし、身の回りの人かもしれません。
感謝の気持ちが本物であれば、自然であれ、人であれ、自分の損得を忘れて相手の役に立とうという行動ができるはずです。

そう思えば、この雲水の言葉は、自分のことしか考えていない、小さな心の表現になっていることに気づくでしょう。

どのような時も、相手のことを生かすことを真っ先に考えなさいという教えであるとすれば、非常に深い公案であるといえないでしょうか。

ではまた。