心を打つ物語に触れることの意味、致知新聞広告「喜びの種をまく」より | 生命(いのち)を輝かせる言葉の森

心を打つ物語に触れることの意味、致知新聞広告「喜びの種をまく」より

昨日の日経新聞に「致知」という雑誌の広告が掲載されています。
今いる場所で、自分自身の生命(いのち)を活かすための心がけを説く内容になっている異色の広告です。
このブログの読者の方はすでにご覧になっているかとは思いますが、ゆっくりと読むと味わい深く、また、心に響く内容になっているので、そのまま引用いたします。

「喜びの種をまく」2011年9月5日日経新聞広告より

仏法に「無財の七施(むざいのしちせ)」という教えがある。
財産が無くても誰でも七つの施し(ほどこし)ができる、
喜びの種をまくことができるという教えである。
財産が無くて、どうして施しができるのか。何を施せるのか。

『雑宝藏経(ぞうほうぞうきょう)』は、
「仏(ほとけ)説きたもうに七種施あり。
財物を損せずして大果報を得ん」
として、七つの方法を示している。
 一は「眼施(げんせ)」──やさしいまなざし。
 二は「和顔悦色施(わがんえつじきせ)」──慈愛に溢れた笑顔で人に接する。
 三は「言辞施(げんじせ)」──あたたかい言葉。
 四は「身施(しんせ)」──自分の身体を使って人のために奉仕する。
 五は「心施(しんせ)」──思いやりの心を持つ。
 六は「床坐施(しょうざせ)」──自分の席を譲る。
 七は「房舎施(ぼうしゃぜ)」──宿を貸す。
 大きなことでなくともいい。
 人は日常のささやかな行いによって喜びの種をまき、
 花を咲かせることができると釈迦は教えている。 
 自らのあり方を調えよ、という教えでもあろう。

「無財の施」の教えで思い出すことがある。
 生涯を小中学生の教育に捧げた
 東井義雄先生からうかがった話である。

 ある高校で夏休みに水泳大会が開かれた。
 種目にクラス対抗リレーがあり、
 各クラスから選ばれた代表が出場した。
 
 その中に小児マヒで足が不自由なA子さんの姿があった。
 からかい半分で選ばれたのである。
 
 だが、A子さんはクラス代表の役を降りず、
 水泳大会に出場し、懸命に自分のコースを泳いだ。
 その泳ぎ方がぎこちないと、プールサイドの生徒たちは笑い、
 野次った。
 
 その時、背広姿のままプールに飛び込んだ人がいた。
 校長先生である。

 校長先生は懸命に泳ぐA子さんのそばで、
 「頑張れ」「頑張れ」と声援を送った。
 その姿にいつしか、生徒たちも粛然となった。

 こういう話もある。そのおばあさんは寝たきりで、
 すべて人の手を借りる暮らしだった。 
 そんな自分が不甲斐ないのか、
 世話を受けながらいつも不機嫌だった。 
 ある時一人のお坊さんから「無財の七施」の話を聞いたが、 
 「でも、私はこんな体で人に与えられるものなんかない」 
 と言った。お坊さんは言った。 
 「あなたにも与えられるものがある。
  人にしてもらったら、手を合わせて、
  ありがとうと言えばよい。  
  言われた人はきっと喜ぶ。
  感謝のひと言で喜びの種をまくことができる」。 
  
 おばあさんは涙を流して喜んだという。

「喜べば喜びが、喜びながら喜び事を集めて喜びに来る。
 悲しめば悲しみが、悲しみながら悲しみ事を集めて悲しみに来る」 
 ──若い頃、ある覚者から教わった言葉である。
 喜びの種をまく人生を送りたいものである。

 最後に、東井先生からいただいた詩を紹介したい。

《雨の日には 雨の日の
 悲しみの日には悲しみをとおさないと見えてこない 
 喜びにであわせてもらおう 
 そして 
 喜びの種をまこう 
 喜びの花を咲かせよう 
 ご縁のあるところ いっぱいに……》

月刊「致知」総リードより
(引用ここまで)

いかがでしょうか。
こういう物語が心を打つ理由(わけ)をゆっくりと考える時を持つ事も人生には必要です。
生命(いのち)を活かすこと、その意味が見えてくると思うのです。

それが、ゆっくりとではありますが、自分の人間力を高め、使う言葉を変化させ、人の役に立つ行動を容易にしてくれるきっかけになるということを感じていただければ幸いです。

ではまた