荒行する勿れ① の続編です

①のエピソードよりもっと前の出来事です。

 私はとにかく焦るタイプなので、日々家で行うご供養もご指導いただいている以上の人数をしてしまい注意を受けることが度々ありました。


 私にはご先祖や過去世に傷つけてしまった方などとにかく供養しなければならない方々がたくさんいます。

まだ霊視に通い始めたばかりの頃、四家のうち二家を恨んで亡くなられた方々と自分の過去世で傷つけてしまった方々を供養するようにアドバイスをいただいていました。


 それを実行しだしてからそんなに期間は経ってなかったと思います。もともとの不調が悪化し、身体がボロボロで仕事にも日常生活にも支障が出まくり・・・という状態に…。

「今度はどんな悪いことをしてしまったのだろう」「私の身に何が起きているのだろう」と心配になり、霊視へ伺い開口一番相談しました。

色々お話してから霊視に入るスタイルの先生(お弟子さん)でしたので、最近会ったり電話で話した友だちなどの名前も書いてお渡ししたりしていて、「誰かの邪気をもらったのかな」などと思っていました。


 ―霊視後―

「お友達から何か悪い影響を受けている感じはしません。」

「ご供養の効果が出ているサインとして、もともと悪い部分にダメージが出てきています。」


「??」


まとめると、このとんでもない体調不良は

「他人から何か悪い影響を受けた訳でもなく、自分が新たに悪いことをしてしまった訳でもなく、ご供養の気持ちが届いているサイン」

とのことでした。


えぇ~!!良いことじゃん?


 確かにここまでは“アドバイス通りに行動をし、効果が出はじめている”という事で、とても良いことでした。


 それでも、ここまで身体にダメージが出ているのは(当時の)ぴよこの力に対してご供養する人数が多すぎる。ということで、「家族で分担するなど工夫してください」というアドバイスを新たにいただいて帰りました。

 しかし私の家族には日宗先生のおっしゃるご供養の方法 はなかなか理解が得られず「私がしなけりゃこの人たちはどうなってしまうの?」と焦ってしまいました。

家族が理解してくれないのにもそれなりの因果があるのでしょうし、≪身体のできていない≫私がいくらもがいてオーバーワークしても自分が苦しむだけで決して倍速で前進することなどできないのに・・・


 その意味をちゃんと理解できていなかった私は、ご供養にて体調を崩したことに対して「こんな私が自分の身を犠牲にして人のために行動している~!」という点ばかりに着目し、嬉しくなってしまったのです。

 身体はツラいけど人数を減らしたら進めるスピードが落ちるではないか、「どんどん供養して行こー!」と、効果を早く出していきたいがために欲を出してしまいました。。。(←悪い例 )



 ≪過ぎたるは猶及ばざるが如し≫とは私のためにあるような言葉でした。自分で自分の首を絞めるようなことになるのでいよいよ身体が苦しくなり相談所へ駆け込むのですが、アドバイスを聞かないので意味がなく・・・ 


 家族と分担することが無理なら1日当たりにご供養する人数を減らしたり、具体的に誰と誰をというご指示を霊視のたびにいただいたのですが、

『私のような力のない一般ピープルがするのだから、簡単に想いが届くわけがない!!』

1日1人では全く前進できないのでは?!と焦りまくり、聞いているようで結局アドバイスをきかず…。

霊視の場では理解しているのですが日々過ごしているうちに感情的になり自己流へ。←一番よろしくないパターンですね。いくら頑張っても結局聞いていないことと同じなのですから。


 このブログにも何度か書いていますが話を聞かないというのは本当に開運への道を遠回りさせてしまうことになるのです・・・


 そのままぴよこの暴走はここから半年ほど続くことに。


―暴走に終止符を打った日。―

 ご供養のダメージのせいだけではありませんが、それからも長い間相変わらずの体調不良ぶりで、ある日、霊視へ行きいつものように現在の具合をお話しすると


「今、誰の供養をしてるんだっけ?」と問われました。その時は複数のご供養をしていることに対して“私がしなけりゃ誰もする人がいないのだから仕方ない”と思っており、オーバーワークに対して全く悪気というか自覚がなかったので、「誰と誰と…」と隠すこともなく自然に答えました。


しかし、実際に口に出してみると自分でも

「あれ?何か違うことしているな・・・」という違和感が。。。

先生も私がやっと少し実感したと思ったのでしょう。その日、初めて

『私(先生)の言う事・アドバイスを結局何も聞いていないではないですか』

と強い口調でおっしゃいました。怖かったというより、私何やっているんだろうという情けなさで涙が自然に出てきました。きっと先生が本気で怒ってくれたことに対しても心が動いたのだと思います。

 

 霊視のメモには『アドバイスを勝手にアレンジしないでください』とやんわりと書いてくださいました。



 その日までのぴよこの悪行はそれだけにとどまりませんでした。家族の霊視に出てきたご先祖様も最終的に私が供養するようなこともあったので「この方も私がすることになるのだろうな、始めるなら早い方がいい」と勝手に判断して先生に言われる前から始めたこともあります…。


 分かったような行動をして本当に生意気だったと思います。

(今は逆に、言われたことを十分できているかどうかの方が心配ですが(←しっかりしろ~))


 よく「ぴよこさんはすぐに物事をなめてしまう」という表現をされましたが、思い返せばその本当の意味に気づいたのも、こうして自分の行動を冷静に振り返りながらブログ(文章)にし始めた、ごく最近ということになりますね(とほほ)。。。

日宗先生、こんな機会をいただき本当にありがとうございます。


 当時は同じ○○家のご先祖同士だしまとめて供養しよう!という軽い気持ちだったのですが、ご供養の対象が1人増えることはそう甘いことではないのです。今自分で文章を打っていて改めて“何てことをしていたんだろう!”と震えがきます(冷や汗)

 これこそが「物事をなめている」ということですね。

 ※ご供養や祈祷のダメージについての分かりやすい文章を見つけたのでこちら をご参照ください。



 それは、修業を積んで自分の身体をしっかりさせてから“こそ”できることであり、完全に順番を飛ばしてしまっていました。

 『身体もできてないのに・・・

(そんな人数を供養して…怒&呆れ)』

という言葉がまだ耳に残っています(汗)


 そもそも、「霊能者でなければ供養の気持ちなどそう簡単に届くわけがない」というところから間違っていたようです。弱いけれど、真剣に念ずれば確かに届く…。ただ、気持ちを込めれば込めるほど気持ちが相手に届けば届くほど、身体へのダメージは強く、疲労も半端ないので、

そこで、それに負けない身体が必要になるのです。

 複数の方や、他人の分のご供養までできるのは、しっかり修業を積んでダメージにそう簡単に負けない心身を手に入れたと先生が判断したプロレベルの方のみなのです。


 先生はまた『≪その人≫の霊視に出てくることにも意味がある』とおっしゃっていました。

それは≪その人≫がするべきことだから≪その人の霊視≫ででてくるのです。

 たとえば家族で霊視を受けていて、母には先祖の△さん・私には先祖の◇さん・妹には先祖の○さんのご供養が必要と判明したとします。

○さんは妹に助けてほしいなと思っている、または妹が○さんの供養をするべきと『神様が』示しているということでしょう。

 同じ家族なのだから最終的には力を合わせてみんなで△・◇・○さん3人の供養をしていくのが理想なのかもしれませんが、体が出来ていない状態だったら「他の家族の分まで」というのは難しいことがあります。自分の日常生活すら維持できない状態に陥りかねないのですから・・・



 指摘され、頭では分かっていても心の底からは理解できていないのでしょう・・・。そこまで言われても

今度は「私はそんな影響をキャッチできるはずがないんだから」

という思いがありました。身体の不調は常にあったのでそれとご供養のダメージの見分けがつかないというのもありましたが、いつもの症状がすさまじく悪化しました。


それが≪体ができていない≫のに“我”張(がんば)った結果です。


 当時は体調不良に対する祈祷もお願いしていたので、「何で?」と思っていましたが自業自得でした(汗)

先生方は強いので私一人の祈祷で再起不能になってしまうことはありませんが、重症なら重症であるほど先生だってダメージを受けます。ダメージを受けながらせっかくご祈祷して下さっていたのに私が霊視のアドバイスを聞き入れないばかりに私の体調はどんどん悪化していき、先生もどれだけ困ったことかと思います。すみませんでした(←遅い…)


 目に見えないから気づくことも難しいのですが、指示に従わず暴走してしまうことは、霊の世界でも本当に危険なことで、必ず事故につながるのです。 

日宗先生はよく、そのような状態を「仮免の段階で公道をバンバン運転することと同じ」と例えられます。免許取得までは、指導の下確実に一歩一歩進まなければいけない、と。そのとおりであり(←ぴよこが言うな)

目には見えないそれに≪早く気づくため≫≪軌道修正するため≫にも繰り返し霊視を受けなければいけないのですね。



繰り返しますが、話を聞かないというのは本当に開運への道を遠回りさせてしまうことになるのです・・・


※私自身が≪体が出来る≫ということをまだイマイチ理解しきれていないので説明不足になってしまうかもしれませんが、

例えば気持ちを込めて○さんのご供養をしたとします。私であろうが霊能者の先生であろうが同じ大きさのダメージを受けることになります。

 そこで差が出るのはそのダメージに負けないような、(耐えられるような)修業を積んで身体ができているかどうかという部分です。私のようなふにゃふにゃの状態ではすぐに「あちらが痛いこちらが痛い」、「持病が悪化する」などという影響が出てきます。


自分では見えない世界ですが、その反応を自分の身体で感じることができている訳なので、それ自体は悪いことではないのですが、

欲張って『アドバイスいただいた以上のこと』をすれば、今の自分では耐えきれないダメージが来ますのでとても危険になります。

 霊能者か否かという違いは『想いが届くか』というより『思いが届いた時のダメージ』にあるようですね。※



自分ではよかれと思ってしている方法でも、先生の指導の下にしていかなければ大変な目に遭ってしまうのです。

その時その時で自分の状態もするべき事も変わってきますし、霊視を繰り返し受ける大切さはここにもありますね。


 感情的にならず冷静に考えて気づいてきたことですが、他の誰もせず最終的に私がすることになるご供養は他の家族だけでなく自分の霊視にも出ていらした方です。


自分に必要なことだけすべきところを(←それだけでもとても大変なことです。)余計なことをしたばかりに自分の生活すら維持できなくなるのですから・・・


自我を育てる勿れ、荒行を我張る勿れです

とほほ