ミシュレの『万 物 の宴』(藤原書店、2023年)を読みました。フランスの歴史家で『フランス革命史』や『フランス史』なとの著書で知られるミシュレが、ナポレオン三世の権力掌握に反対して、公職を逐われた後、妻アテナイス と二人で過ごした流謫の日々の中で、1853年から54年にかけての北イタリアでの体験を基に書き始めたのが、本書です。ミシュレは本書を執筆する中で、人間の歴史と自然の歴史を総合した新しい世界観を獲得したのでした。そして、その世界観を基に『鳥』(1856年)・『虫』(1857年)・『女』(1860年)・『海』(1861年)・『山』(1867年)・『魔女』(1870年)などの著作をミシュレは生み出したのでした。しかし、ミシュレは、この新しい世界観を詳しく 述べた作品を完成させることなく、1874年に亡くなりました。そこで、アテナイスは、ミシュレの 遺稿を基に編集したものを『宴』と題して1879年に出版しました。 マコーリーの妹ハナがマコーリーの遺稿を編集して『イギリス史』の第五巻を出版したように、それは当時はごく当たり前のことでした。しかし、アテナイスは、ミシュレの遺稿に校訂のレベルにととまらない改竄を行ったのだして批判を加えられることになりました。それは、ニーチェ の妹が兄の遺稿に対して行ったのと同様の行為であったと捉えることができるようです。後にロラン・バルトが著書『ミシュレ』(1954年)


 

 



で 行った批判は、1986年に出版された日本語への翻訳を通じて、日本でも知られています。そして、ミシュレが遺した原稿をフォーケが編集したものが、フラマリオン社版ミシュレ全集の20巻に『宴』として1980年に収録されました。それを底本として大野一道氏と翠川博之氏が日本語に翻訳したものが本書です。大野氏と 翠川氏による翻訳では、アテナイスがどのように手を加えたのかもわかるように編集されています。

 さて、大野氏によると、本書 の原稿には、もともと『宴、あるいは、戦う教会の一体性』というタイトルが着けられていて、「欠食」・「社会主義的宴」・「世界共和国の社会主義的共和主義理的宴」の三部構成となっている未完の原稿と配列不明の五つの断章が遺されていたのでした。アテナイスは、それらの内容を改変し配列を大きく変えて

「飢えの国」・「宴ー満たされた生の宴」の二部 構成 20章からなる 本とし、序文と結論を書き加えて『宴』として1879年に出版したのでした。これをフラマリオン社版の選集に 基づきミシュレの原文に戻し、ミシュレの意図に即した『万物の宴ーすべての生命体はひとつ』というタイトルに改め、大野氏による解説や、索引を加えたものが本書です。

 本書の中で、ミシュレは、フランス やイタリアで目にした

民衆 の間での貧富の差や 自然からの乖離の拡大を克服するためには、人間と自然を対立的に捉えるヨーロッパの世界観に代えて、人類のみ ではなく、この地球に生きるすべての生命体が参加することのできる「宴」を開ける場所を設けることを可能にするような世界観につくことが必要であると説いているのでした。しかし、それを実現するには、自然からの掠奪を前提とする資本主義に基盤を置いた当時の社会主義では不適格である とミシュレは考 えたのでした。マルクスも『資本論』第一巻を刊行した後に作成した後に抜き書きなどでは同様の構想を抱いていたようなのですが、マルクスの遺稿から『資本論』の続巻を編集したエンゲルスにはそれは盛り込めませんでした。そして、抜き書きから作品の姿を推測するのは難しいように思えます 。マルクスの『資本論』第一巻をフランス語版で読み込んだモリスの『ユートピア便り』がマルクスの構想を引きついだと言えるのかもしれませんが。

 さて、ミシュレは、人間および民衆については、『フランス革命史』や『民衆』といったそれまでの作品の中で物語っていて、それらでの思索の跡は、『宴』の中にも取り込まれています。しかし、自然について語ることは、それまでの作品では、ミシュレ は物語ってきていませんでした 。『宴』以前の作品では語ってこなかったこと、詳しく具体的には述べてこなかったことについては、『宴』の中では未定稿として遺されることになったのでした。すべての生命体が一同に集う宴会が開かれる ことを想うことで、ミシュレは「人新世」への道を拓いていたように私には思えます。「人間の歴史」と「自然の歴史」を一つの視野に収めた上で「歴史」に対して思索を捲らすことは、既にゲーテやヘルダーがドイツ語では試みていたことです。フランス語では、ミシュレの本書が人新世への道を拓いたものになっているように思えます。

 『宴』では 述べることができなかったことについて、『鳥』以下の作品で補っているうちに、ミシュレにとっての時間切れになってしまったことは惜しまれます 。

 大野氏と翠川氏 の訳文を見る限り、ミシュレの文章の詩のような美しさは、よく再現されているように思えます 。