英文学者で翻訳家の戸川秋骨(1871~1939年)による『マコーレイ論文集』(春秋社、1931年)を読みました。ハードカバーで354ページの春秋文庫の一冊として出版された本書にはマコーリーの評論四本の翻訳が収録されています。収録されているのは以下のものです。

 ① 「ウォーレン・ヘイスチングス」(ER1841年)

 ②「クライブ」(ER1840年)

 ③「フレデリック大王」(ER1841年)

 ④「ウィリアム・ピット」(EB1859年)

 →①~③は、ホゥィッグ党系の評論誌『エディンバラ・レビュー』(ER )に掲載された 書評スタイルの論文 で、④は、百科事典『エンサイクロペディア・  ブリタニカ』のために執筆された記事で マコーリが生前に公表した最後の作品です。

 これらの作品の原題などのデータや解説はつけられていないのですが、マコーリーがインドから帰還してから後に執筆した伝記的なスタイルの良作を精選したものと思えます。


①は、英領インド帝国建設の功労者ヘイスチングスの功績に重きを置く形を執った評伝です。英領東インド会社から 本社のあるロンドンへの送金を確保したりするために利殖に走ったりしたことなどについて、マコーリーは、批判的なのですが、現地での諸勢力との抗争や本国  での権力闘争 を巧みに切り抜け、統治 を安定させ、インドの富を拡大 させることを果たした彼の手腕をマコーリーは高く評価しています。ヘイスチンクスの本国への帰還の後、バーグがその裁判に精力を費やしてしまったことをマコーリーは、なげいています。マコーリー自身がインド統治に加わった経験を踏まえた生き生きとした記載がなされた良い論文と思えます。


②は、英領インド帝国 の基礎を作ったクライブの評伝です。なのですが、18世紀始めのヨーロッパとインドの情勢から マコーリーは、 説き起こしています。

寒門の一青年として身を立てるため、東インド会社に就職し、書記に任命されて当時はイギリスは弱小勢力にすぎなかった英領インドに送りだ されたクライブは、強大な現地勢力やフランスの勢力と、指揮官として軍事的に対峙することを余儀なくされました。そして、クライブは 、「黒い穴」の惨事を経て プラッシーの戦いでのフランス勢力への勝利へとイギリスを導いたのでした。それは、クライブに名声と富を齎したのであり、クライブは裕福になってイギリスに戻りました。そこで、「インド統治を改革する」ことの必要性に目覚めた彼は、再度インドに赴き改革を「実行」に移しました。それは一定の成果を収めたはずだったのですが既得権益を損なうことになり、 クライブは、帰国させられます。帰国後のクライブは、 紛争の末、自殺することになります。マコーリーは、複雑な経緯を明解に活き活きと描いています。


③は、フリードリヒ大王がプロシャ王国をドイツの小国から苦闘の末にヨーロッパ有数の軍事大国に 登ることに果たした経緯を 、7年戦争が終わった時点までについて、簡潔にマコーリーが物語ったもので、ドイツ帝国建国への道がイギリスではどのように見えていたのかを示してていると思えます。


④は、レビューとしてではなく、事典の伝記の項目の一つとして書かれたこともあって、マコーリーは、客観的であろうとすることに努めているように思えます 。1759年に生まれ1806年に死去したピットは 、アメリカ独立戦争からフランス革命を経てナポレオン戦争に至り、選挙法改正、アイルランド問題、 インド統治改革問題、奴隷制廃絶問題などの内外共に多くの解決困難な問題を抱え、それらの解決に向けて精力的に取り組んだ政治家であったとして、マコーリーは描いています。ピットが取り組みなかがらも解決には至らなかった様々な問題を引き 継いたのがマコーリーたちの 世代のホウィッグの政治家たちであると思います。マコーリーは、自らの議会政治家やインド官僚としての体験を踏まえてこの伝記を書いたものと思えます。

   これらのことから、この論文化集は、マコーリー の『イギリス史』に含まれて当然のエピソードについてマコーリーが書いたものを集めたものといえると思います。

 戸川氏の訳文は、今日でも 明快で読みやすいものであると 私には思えました。