今回は、Lord Macaulayの The History of England, vol. 1.,chap 1
の5段落目(p. 3)から読むことにします。
「私は、時代を通じて広がる波乱に 富んでいて重要なドラマの ほんの一幕となっていたことを物語りたいのであり、先立つ幕の筋書きをよく知らないことにはたいへん不完全にしか理解できないことになるに違いない。そのため、私は、私の物語を、私たちの国のもっとも早い時代からの概略で 始めることにする。私は、多くの世紀を非常に 手短に通り過ぎることにする。しかし、国王ジェームズ二世の治世が決定的な危機をもたらした抗争の移り変わりについては、ある程度の長さで詳しく説明することにする。
[原注] 本章と次章では、典拠を引用する必要があるとは、私は、全く思わない。というのは、これらの章では、私は、出来事を事細かに述べはしないし、厳密な資料を使うこともしないのであるから、そして、私が 言及している事実は、大部分がイギリスの歴史をまずまずよく読まれている方であれば、それらに同意してくださらなくても、少なくとも、それらの証拠のどこを探せば見つかるのかは、ご存じであろうから。その後の諸章では、私は、慎重に、私の情報の根拠を明らかにすることにしたい。
初期のブリテンでの生活には、 ブリテンが到達することを運命とされている偉大さを指し示すものは何もなかった。その住民たちは、初めてティルス人 の船乗りたちに知られた時には、サンドイッチ諸島の現地人たちとほとんど同じだった。彼らは、ローマの 軍隊に従属させられていた。しかし、ローマの文学や芸術の色合いは少しも受け 取りはしなかった。カエサルたちに従った西方の 属州たちは征服されたのは最後であったのだが逃れたのは、最初だった。古代ローマ人の柱 廊や水道橋の壮麗な遺跡は、ブリトン人の 島では見出せないのであった。ブ
リテン島生まれの作家には、ラテン語の詩や 雄弁家の巨匠に数えられるものはいない。この島の 住民たちがイタリア人の支配者たちの言葉にいつの日にか全般的に慣れ親しむということはなさそうである。大西洋からライン川の付近まで、何世紀ものあいだ、ラテン語が優勢であった。ラテン語は、ケルト語によって駆逐されたわけではなかったし、チュートン語によって駆逐されたわけでもなかった。そして、ラテン語は、現在では、フランス語、スペイン語、ポルトガル語の基礎になっている。私たちの島では、ラテン語が、古くからのゲール語よりも 優位に立ったことは一度もなかったし、ドイツ語に対して基礎となることもできなかった。
ブルト ン人たちが南からの主人たちから引き出した 乏しいうわべだけの文明は、五世紀の災厄によって消え去った。そのころ、ローマ帝国が解体された大陸の諸王国では、征服者たちが征服された人種から多くを学んだ。ブリテンでは、征服された人種は、征服者たちと同じように野蛮であった。」(p.4の2行目まで)
マコーリーが『イギリス史』の目的や 構想について説明した冒頭の 部分を二回に分けて日本語に直してみました。
1848年末に出版されたため、この時点では、イギリスの 歴史についての知識が国民に共有されてはいなかったこと、学校教育も不完全な形でしか存在しなかったこと、 バークらによってフランス革命に対するイギリスの名誉革命の優越性は力説されていたものの名誉革命の事実関係を説明する努力は なされていなかったことを踏まえて、マコーリーが王侯将相 の歴史ではなく、「国民」の歴史を書こうとしていたことが述べられています。哲学者のヒュームが書いた歴史などで 部分的には試みられていたものの、全体としてはまだ成し遂げられていなかったことを成し遂げようとするマコーリーの抱負が述べられている部分です。ストーンサークルや ユリウスカエサルの侵攻、あるいはローマの支配への住民たちの反抗などに マコーリーが触れていないことに物足りなさを感じるのですが、時代的な制約もあったのでやむを得ないように思います。
なお、マコーリーが英語でイギリスの 国民の歴史を書こうとしていたことは、ランケがドイツ語で、キソーやミシュレがフランス語で、それぞれの国民の歴史を書こうとしていたのと、同時代の 現象として捉える 必要があるように思えます。