今回は現在私の居住する大分県の話です。

そこで地の利も加えまして、少し丁寧に考察したいと思います。

そして、『景行天皇紀』を主体としながらも、時折『豊後国風土記』も参考にして、論を進めていきたいと思っています。

 

纏向日代宮で天下を治められた景行天皇は即位十二年冬十月、碩田国に到る。

其の地は広く、大きな田があり、麗しい。

そこで、その地を碩田(大きな田の)国と名付けられた。

碩田、これを於保岐陀(オオキタ)と読む。現在の大分(オオイタ)県である。

 

豊前国長峽縣(福岡県京都郡)から出港した天皇は、国東半島を回り込み、別府湾を横断すると海部郡宮浦に上陸し、速見邑(現在の別府市から日出町)に到る。

海部郡は本来、大分市大在、佐賀関、臼杵、津久見、佐伯、蒲江にかけてであるが、天皇は上陸後速見郡を治める速津姫に会っているから、この時の海部郡宮浦とは海部郡の最北端に位置する大分市大在辺りの話なのだろう。

景行天皇がわざわざ南方の大在に立ち寄った理由として考えられるものとして、当時大在には土地の海人族王が海部郡を支配する拠点(王城)があったので、景行天皇はこの地に住まう海人族王に挨拶に行ったのだと思われる。

 

元来、大在(王在)には亀塚古墳など当時の海人族王の墓(前方後円墳)が多く存在する。前方後円墳は大和朝廷と繋がりの強い豪族(現地王)の墓だからである。

しかし、天皇家以外の倭国の支配者をいっさい認めない『日本書紀』は、その辺のことをうやむやにしたのだと思われる。

 

大分市大在にある亀塚古墳(著者撮影)(全長116mの前方後円墳;4世紀末から5世紀初頭に作られた古墳とされ、考古学的比定でも景行天皇の時代に近い)

 

 

速見邑には速津(はやつ)媛という女人が居て、邑の長のようであった。

つまり速津姫は海人族王の配下にある速見地域の巫女王だったのだろう。

彼女は天皇がやって来たと聞くと、自ら出迎えて言いました。


「茲の山には大きな石窟(いわや)があって、鼠石窟(ネズミの岩屋)と云います。

岩屋には二人の土蜘蛛が住んでいて、一人を靑、もう一人を白と曰います。

更に、直入県の禰疑野(ネギノ=竹田市菅生辺り)には三人の土蜘蛛が住んでいて、それぞれ打猨(ウチサル)、八田(ヤタ)、国麻呂(クニマロ)と云います。

この五人は人並外れて力が強く、仲間も多くいて、全員が『皇命には従わない』とのたまわっています。

もし無理に呼び出したりしたら、きっと兵を起こして戦うでしょう。」
それを聞いた天皇は嫌な気分になり、前に進めなくなりました。

 

ここで、青と白の住む鼠窟屋のある茲の山とは何処なのかが長い間謎だったのだが、速津姫が本拠地の別府辺りで、青や白について語っていることから、過去には鼠窟屋のある茲の山を別府や湯布院近辺の話と考える論者が多かったようです。

 

すると確かに別府市内には鬼の岩屋と呼ばれる洞窟古墳が存在します。
但し、鬼の岩屋は6世紀後半と記され、景行天皇の時代とは少し乖離がある。

 

ところが『日本書紀』によると、天皇はこの後ただちに青や白との戦闘を開始せず、次に來田見邑「直入郡久住町來田見(きたみ)神社」辺り迄進軍すると、其処に宮室を建てて、其の地に留まったとされます。そして來田見邑を拠点に、天皇は土蜘蛛たちとの戦いを進めていくことになるのだから、この時点で既に、青と白の住む鼠窟屋が別府や湯布院近辺にあった可能性は低くなります。

因みに景行天皇軍が、速見邑(別府)から來田見邑に到るには、大分市から大野川を遡ったのではなく、由布市を経由する、所謂北回りルートを使ったようです。

 

 

 

景行天皇は群臣と協議して言いました

 

「今こそ多くの兵を結集して、ひと思いに土蜘蛛を討ち取ってしまおう。もし、彼らが我々の軍勢を畏れて山野に隠れたら、必ず後の愁いと為るに違いない。」

 

そこで、海石榴(つばき)の樹を採り、それで椎(つち)を作って兵(武器)と爲し、勇猛な兵卒を選んで椎の武器を授け、これを以て山を穿ち、草を抜いて、

石室にいた土蜘蛛を襲って、これを大野川上流部にある稻葉川の川上で破り、

仲間を悉く殺したので、多くの血が流れて踝(かかと)まで浸ったとされる。

 

故に、時の人は其のツバキの椎を作った所を海石榴市(ツバキチ)と言い、

また血の流れた処を血田(チダ)と云うのだそうです。

 

滝尾百穴横穴群(これは大分市内にあるものだが、鼠窟屋とはこんなものか?)

 

この時戦った土蜘蛛の名は記されないが、皇軍は後に八田や打猨と戦っているから、この時戦った土蜘蛛を、まだ名前の出ていない国麻呂と考える論者が多いようだが、私はこの土蜘蛛は、同じく名前の出ていない青と白だと考えています。

なぜなら、この時の戦いは明らかに八田や打猨(及び国麻呂)のグループとは別の戦いであり、更に青と白とは速津媛から特別に鼠窟屋に住む土蜘蛛と聞かされており、しかもこの時の戦いは「石室に居た土蜘蛛を襲って」と記されているので、この石室とはほぼ鼠窟屋のことだろうと考えられるからです。

ところが稲葉川は大野川上流部の竹田市市街を流れる川なのに対し、血田に比定される場所は緒方町知田と思われるのだが、じつはこの場所は稲葉川下流沿いにはなく、大野川の別の支流である原尻の滝で有名な緒方川沿いに在るのです。

すると稲葉川の戦いで殺された土蜘蛛の血が緒方川に流れてくるはずがないので、この話は矛盾していることになります。

 

だから、以前の私は血田を緒方町の知田に比定したのが間違いではないかと考えたのですが、実際、過去の論者の殆どがそのように考えたので、鼠窟屋の場所が解らなくなってしまっていたのです。

 

ところが、『豊後国風土記』の大野略記には次のように記されます。

 

海石榴市(つばいち)・血田(ちだ)。並んで郡の南にある。
 

昔、纏向日代宮御宇天皇(景行天皇)が球覃の仮宮に住んでいた。そこで鼠石窟(ねずみのいわや)に住む土蜘蛛を討伐しようと、群臣たちに命じて海石榴(つばき)の樹を伐らせ、それで槌を作って武器とし、勇猛な兵に授けた。

それから、兵たちは槌で山に穴を開け、草を押し倒して土蜘蛛を襲い、悉く誅殺した。すると、土蜘蛛たちの血がくるぶしに達するまで流れ出た。その槌を作った場所を海石榴市(つばいち)と言い、血が流れた場所を血田(ちだ)という。

 

この文を照らし合わせても、「打猨・八田・国麻呂」は直入県の禰疑野にいたと記されるので、三人とは稲葉川流域で戦ったに違いありません。それに対し、元々異なる集団である青と白と戦った場所が稲葉川流域である必要はありません。

 

つまり、どちらかというと『豊後国風土記』の伝承が正しく、『景行天皇紀』の記載が間違っていると考えますと、「青と白」の住む鼠窟屋は稲葉川沿いではなく、緒方川沿いに在ることになるから、やはり景行天皇軍と青と白との戦闘は稲葉川流域ではなく、明らかに緒方川流域で行われたに違いないのです。

 

そうすると緒方川流域には古墳時代の横穴古墳遺跡が多数あるようです。

 


また次に打猨(ウチサル)を討とうとして、禰疑山を通りました。その時敵が矢を、横から山に向かい射ってきて、皇軍の前を雨の如く流れていきました。

これには流石に天皇も矢の雨を恐れて、一旦城原に返り、水の上にて卜(うらない)を行いました。而して、兵を整え、先に八田を擊ち、禰疑野でこれを破りました。

すると打猨は、皇軍に勝てないと観念したらしく、降参してきました。然し、天皇は降服を許さなかったので、打猨一族は皆、谷間に身を投げて死にました。

 

ここでも又、大和朝廷軍の土蜘蛛に対する無慈悲な仕打ちが露呈しています。

基本的に土蜘蛛とは、地方に住む一般の人たちなのだから、政権中枢にいる権力者たちの地方民に対するあまりにも残忍な扱いは、黙って見過ごせません。

 

天皇、初めて、賊を討たむとして、次に柏峡の大野に宿りたまふ。

其の野に石有り。長さ六尺程度、広さ三尺程度、厚さ一尺五寸程度なり。

天皇、祈りて曰く、「朕、土蜘蛛を滅すこと得るならば、将にこの石を蹴飛ばすに、柏の葉の如く舞い挙がれ」とのたまふ。因りて蹴飛ばしたなら、柏の如く大虚に舞い上がりけり。故に其の石を号して蹴飛ばし石と曰ふ。而して、この時に祀る神は、則ち志我の神・直入の物部神・直入の中臣神、三柱の御神なり。

 

尚、この記載は、土蜘蛛と戦う前に願掛けをした時の話として記されているが、

もう既に五人の土蜘蛛とその配下の連中は全て誅殺し尽くした後なのだから、

この話は実際には土蜘蛛に戦勝したことを祝い、神に感謝した時の話のはずである。

なにしろ、この柏峡の大野という場所は、打猨・八田・国麻呂らを破った地の禰疑野よりも更に奥地にある阿蘇の外輪山に面した土地の、禰疑野を通過しなければ行きつけない所に在るからである。

 

 

ところで、竹田市の禰疑野(ねぎの)には七ツ森古墳群が有ります。

 

七ツ森古墳(竹田市HPより) 秋になると多くの彼岸花が咲き誇るこの古墳は、まさに青と白や、打猨・八田・国麻呂らの一族が眠る場所に 相応しい。

 

 

 

 

 

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