香椎宮本堂(著者撮影)

 

香椎宮本堂内部(著者撮影)

 

香椎宮裏手にある仲哀天皇が倭国軍の大本営を開いた場所の石碑(著者撮影)

この石碑は同時に仲哀天皇の墓標にもなるのであった。

 

香椎宮境内にある有名な綾杉

 

香椎宮で大和朝廷軍の大将である仲哀天皇を誅殺し、朝廷軍をごっそり引き継いだ、

「功満王」「神功皇后」「武内宿禰」らの三人は、

帰化人の秦氏も加えて軍勢を拡大し、かなりの大軍となりましたが、彼らはその後、北九州地域の倭人勢力を席巻すると、倭国の九州勢力の殆んどを滅ぼしてしまい、結局彼らに成り代わって、秦氏の国である秦王国を建国するのです。

 

 神功皇后を旗印とした朝廷と秦氏連合軍は、手始めに荷持田村(のとりたふれ)(現在の朝倉市)にて、その地の支配者である羽白熊鷲を討ちます。

 羽白熊鷲は『日本書紀』に非常に力が強かったと記されるが、強力な軍勢に対し、個人が如何に活躍してもたいしたことないので、結局討ち取られてしまいます。

 

 『日本書紀』には仲哀天皇が羽白熊鷲との戦いで敵の矢を受け、命を落とした話も記されるが、前述の如く仲哀天皇は「功満王」側に寝返った武内宿禰らに殺されたと考えられるから、『日本書紀』はこの話を「当時状況的に有り得る話」として敢えて記し、武内宿禰や神功皇后が天皇を裏切ったことを隠蔽したのでしょう。

 

 

福岡県朝倉市にある羽白熊鷲の墳墓(著者撮影)

勿論、この墓はレプリカである。元の墓は朝倉市矢野竹に建立された「せせらぎ館」の敷地内にあったようだが、「せせらぎ館」建設工事で掘り返されたので、人目の付く現在地に移されたらしい。

この墓は大和朝廷ブランドの前方後円墳ではなく、単なる円墳なのだが、それも当然。

 

 次に神功皇后軍は昔倭女王卑弥呼が倭国の王都邪馬台国を置いた筑後山門を襲い、卑弥呼の後継者である田油津姫を殺しますが、その時田油津姫の兄夏羽が妹を助けに来たが、既に妹が殺されていたことを知り、逃げたとされます。

 

 

みやま市瀬高にある蜘蛛塚 田油津姫の墓とされる

(著者撮影)

 

 

 この時殺された田油津姫の墓は蜘蛛塚とされていますが、

現地では情報が錯綜しており、私が卑弥呼の墓に比定する

権現塚を田油津姫の墓と考える人もいるようです。

 

同じみやま市瀬高町にある権現塚(著者撮影)

蜘蛛塚から数百m離れた場所に在り、

径50m(人が普通に歩いた時の百余歩)であることから、

私は卑弥呼の墓に比定している。

 

 

香春岳(Wikipediaより)(一の岳はセメント採掘により上半分が削り取られている)

即ち、現在のこの姿は秦王国時代の香春岳の姿が殆んど残されていない。

 

 さて、今度は場所が突然、福岡県田川市香春に移りますが、

これは神功皇后軍が逃げた夏羽を追って、筑後山門から香春迄行軍した為です。

 この地には秦氏を祀る神社と思われる香春神社、及び若八幡宮があります。

 

田川市香春夏吉にある若八幡宮(著者撮影)

 

 若八幡宮の由緒書きによると、神功皇后軍は、逃げた夏羽を本拠地の田川香春夏吉迄追ってきて、夏羽を焼き殺したとされます。その為当地は夏焼と呼ばれたが、江戸時代に夏焼の名が不吉であるとして、夏吉に改名されたようです。

 

 この件に関しては、夏羽・田油津姫兄妹が、景行天皇に帰順した神夏磯姫の後継者であると、由緒書きに明記されています。因みに田油津姫は朝廷に恨みを持ち、神功皇后の暗殺を企てたと記されますが、これは神功皇后側の言い分に過ぎず、実際の処は圧倒的武力を持つ神功皇后軍が筑後山門に突然侵略してきて、王の田油津姫を有無を言わさず、なぶり殺しにしたと云うのが実情でしょう。

 

 つまり、神功皇后軍は景行天皇に帰順した神夏磯姫一族を何の躊躇もなく殺している位だから、景行天皇の孫である仲哀天皇の関係者とは考えにくく、どちらかと言えば敵対する勢力だったことが、これら一連の出来事からも頷けるのである。

 

田川市香春夏吉にある若八幡宮の由緒書き(著者撮影)

夏羽と田油津姫兄妹が神夏磯姫の一族であることが明記されている。

 

田川市香春夏吉にある若八幡宮(本殿)(著者撮影)

田油津媛の兄、夏羽が火炙りにされたこの地に建てられた。

 

若八幡宮の由緒書きでは主祭神が仁徳天皇であり、この考えでは功満王=応神天皇、融通王=仁徳天皇になるが、功満王は仲哀天皇八年、融通王が応神天皇十四年に渡来したと記されるので、やはり、応神天皇が融通王(弓月君)なのだろう。

『記・紀』では髪長姫の話など、応神天皇と仁徳天皇が被って記されており、同一人物ではないのかとする説もあるようだが、多分どこかで入り乱れたのだろう。

 

これにて、神功皇后軍(実際には大和朝廷秦氏連合軍)は伊都国の五十迹手を帰順させると、嘗て邪馬台国(筑後山門)に王都を置いていた旧倭国勢力の王・田油津姫、朝倉(甘木・秋月)の羽白熊鷲、及び田川香春の夏羽を全て片づけて、九州北部全土を支配し、秦氏の王国を建国することに成功したのです。

 秦王国の聖地は秦氏軍が夏羽を討った香春とされるので、香春神社とその元宮である古宮八幡宮の由来を考えることが、秦王国を理解するうえでの近道です。

 

香春神社鳥居(著者撮影)

 

香春神社(著者撮影)

 

香春神社の由緒書きによりますと、

香春神社は元々香春一の岳、二の岳、三の岳の山頂に存在しました。

そして、各神社ではそれぞれ、

一の岳神社;辛国息長大姫大目命、

二の岳神社;忍骨命、

三の岳神社;豊比売命、

が祀られていました。


ところが、元明天皇の和銅2年(709)に、一之岳の南麓に一社を築き、

三神を合祀して、第一座・辛国息長大姫大目命、第二座・忍骨命、

第三座・豊比売命に置いて、香春宮と尊称されたようです。

 

このうち、第一座の辛国息長大姫大目命は明らかに神功皇后と思われ、

神功皇后(息長足姫)が元々新羅から渡来した天日矛の末裔とされており、

倭国の天皇だった仲哀天皇と二人の皇子(籠坂王と押熊王)を殺したうえに、

秦氏の王の功満王と結婚し、融通王(応神天皇)を産んでいることからも、

香春神社が新羅からの渡来民、即ち、秦氏の神社と云うことになるのである。

 

つまり、香春神社は渡来民の秦氏が北九州の香春地域の倭人を征服して建てた神社であるから、それ以前には血生臭い殺戮の歴史があったことになるのです。

 

次に、第二座の忍骨命であるが、

『日本書紀』のある一書によると、忍骨命は天照大神が須佐之男命と誓約をした時に生まれた長男である天忍穂耳命と同一神とされている。つまり、忍骨命は大和朝廷と田川香春地方にある昔からの関わりを示しているのだ。

たぶん、新羅人は大和朝廷が九州から東遷した国であることを知っており、天照大神の子である忍骨命を九州時代の大和朝廷のシンボルして祀ったのだろう。

 

次の第三座の豊比売命であるが、こちらは北九州地方の土着の神と思われる。

つまり、秦氏たちが征服した時に地元の民を大量に殺戮した為、殺された者たちの霊を弔うために、代表して現地の女王を祭ったのであろう。

 

北九州地方の土着の神として、景行天皇が九州巡行をした時に恭順した神夏磯姫が『日本書紀』に記されている。多分、豊比売命は、神夏磯姫のことなのだろう。

 

神功皇后と武内宿禰は関西に東遷し、大和朝廷を滅ぼして応神朝を築きましたが、

残った秦氏たちは田川市香春から豊前宇佐にかけて住み着いたので、

渡来人秦氏の王国である、即ち「秦王国」を形成していたのです。

秦王国の残存勢力は六世紀に台頭してきた熊襲の磐井と結託し、乱を起こしました。

そして、当時大和王朝では応神勢力は弱体化し、代わって大和朝廷を牛耳っていた、

越人勢力出身の男大迹王(継体天皇)と戦いましたが、負けてしまいました。

この戦いで、九州の秦王国もかなり勢力は衰えましたが、

聖徳太子の時代までは、純然たる勢力を有していたようです。

 

即ち、秦王国は、四世紀末の応神天皇の時代に建国され、

聖徳太子時代の七世紀初頭になると『隋書』にも記されており、更には、

宇佐神宮が建立され、隼人の乱が起きる八世紀半ばまでは存在したようです。

 

そして隼人の乱とは、実際には豊前豊後に住む秦氏の人口が増えすぎた為に、

新天地を求めて、薩摩大隅の隼人たちの居住地を侵略したことが解っています。

隼人たちはこの窮状を、大和朝廷に訴えましたが、

大和朝廷は救済するどころか、逆に朝廷軍を遣わし、隼人を大量虐殺しています。

この時、隼人征伐に遣わされた大和朝廷軍の大将が大伴旅人で、

 

彼は大宰府に居るとき、現在の元号「令和」の元となった歌、

「時に、初春の令月(れいげつ)にして、気淑(きよ)く風和(かぜやはら)ぐ。」

を詠んだとされています。

 

このように大伴旅人は和歌の世界では風流人と評されているが、

その裏には凶悪な軍人の顔を持っていたのです。

 

また、大和朝廷軍に虐殺された隼人を多量に葬った墓が、隼人塚とされています。
 

隼人塚  鹿児島県霧島市隼人町内山田287−1

 

 

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