古宮八幡宮(田川市香春)三の岳採銅所近く

 


 

 今回は宇佐神宮、及びその関連神社を掘り下げてみたいと思います。

 

 

 

 私は『隋書』の記す「秦王国」とは、新羅から倭国に渡来した秦氏の作った王国だと考えています。

 秦王国は北九州地域で5~8世紀に繁栄していたようであり、祭祀の場は最初田川市の香春神社だったが、のちに宇佐神宮に移ったと考えられます。

 

 このことは宇佐神宮の放生会に合わせ、香春三の岳で採れた青銅を用いて、長光氏の子孫が清祀殿で鋳造した銅鏡を神職たちが担ぎ、行橋市の豊日別神社を経由した後で宇佐神宮に奉納する神事が行われてきたことからも明らかです。


 奈良時代に始まった、宇佐神宮の「放生会」と香春神社の銅鏡を宇佐神宮に奉納する神事は奈良・平安・鎌倉時代まで神宮最古の祭礼として毎年行われてきましたが、1307年を最後に完全な形での放生会は途絶えていました。

 だが、地元の有志により、「放生会」は2020年に完全復活を遂げています。

 

 

 

豊日別神社(草場神社)福岡県行橋市

 

 

豊日別宮 別名猿田彦神社

行橋市南泉7-13-11

 

 

古宮八幡宮で鋳造した銅鏡を宇佐神宮に運ぶ中継地だが、何故か祭神は猿田彦命

 

 秦王国が秦氏の王国である根拠として、正倉院に保存される「大宝律令戸籍」に、宇佐周辺部の(豊前国・豊後国)に住む人々には秦の付く名字、及び秦氏に関連する名字が多いことが記されています。

 即ち、昔から宇佐~田川にかけて住む人は、秦氏の血が濃くなるのです。

 

 

 此処で歴史書を紐解いてみますと、『日本書紀』に応神天皇の即位14年に弓月君が、百二十縣の秦氏の人夫を率いて、倭国に渡来したと記されています。

 

 この歲、弓月君が百濟よりやって來た。

 因って奏じて曰く、「臣、己の領国に住む百二十縣の人夫を率いて帰化したいが、然るに新羅人が妨害するので、皆加羅国に留めています。」とのたまった。

 

 この後、葛城襲津彦が加羅国に派遣され、秦氏の人夫を倭国に引率してくるのであるが、百二十縣の人夫はいったい何人位かが問題である。当時一つの縣が六百人位居たとされるので、百二十の縣では凡そ七万二千人位になるのだろう。

 この人数は古墳時代にしてはたいへんな数なのだが、この時代に朝鮮半島から倭国へ向けて、大規模な移民が行われていたことが判明するのである。

 移民の原因として、当時の朝鮮半島は北方からの騎馬民族、即ち扶余(高句麗)族の南下圧力に晒されていたことがある。西晋の時代迄騎馬民族南下は、中国支配下の楽浪郡や帯方郡が押さえていたが、これ等の二郡が西暦313年頃、高句麗に滅ぼされると、朝鮮半島内の騎馬民族南下はフリーパスになってしまうのである。つまり、朝鮮半島から押し出された人々が、倭国に移住してきたのである。

 

 そうすると王の弓月君とは如何なる人物なのかが気になるが「新撰姓氏録」を見ると、秦(しん)始皇帝の末裔である融通王、即ち弓月君が応神天皇十四年に百二十七県の民をつれて渡来したとある。また同誌に、融通王の父親の功満王は仲哀天皇八年に渡来したと記されるが、『日本書紀』は功満王について何も記していない。

 

 以上より私は『日本書紀』に記されない功満王とは、神功皇后が香椎宮で祈った時に現れ、仲哀天皇に新羅出兵を強く要請した「神」ではないかと考えた。何故なら、仲哀天皇八年とはまさに仲哀天皇が死んだとされる年であり、更に伝説における「神」とは、実在の人物の幻影に他ならないからである。

 しかし、「神」の要請を断った仲哀天皇は「神」の怒りを買い、不審な死を遂げてしまうのだが、仲哀天皇の不審な死が「神」の祟りであるはずもなく、当時仲哀天皇の周囲に居た者に殺されたことを意味するのではないだろうか?

 

 即ち、この時仲哀天皇の周囲にいた武内宿禰、中臣烏賊津使主、神功皇后らの全員が、仲哀天皇を殺した下手人として疑われるのである。因みに、『日本書紀』には「或る一伝」として、仲哀天皇が熊襲と戦ったときに敵の矢で射抜かれて、死んだ話も記されるのだが、この前後と繋がらない突飛な話は、仲哀天皇が実際には武内宿禰や神功皇后たちに殺されたことを隠蔽するために記されたのだろう。

 つまり、神功皇后が神憑りした時には既に、仲哀天皇側近の「武内宿禰」も妻の「神功皇后」も、その他お供全員が「功満王」に寝返っていたのであり、仲哀天皇は周りが敵だらけという、非常に孤独な状況に陥っていたのである。

 だからこそ近江三船は「仲哀」と云う哀しげな漢風諡号を付けたのだろう。

 

 因みに、仲哀天皇殺害後直ぐに「神功皇后」は「神」の功満王と結婚したらしく、融通王、即ち誉田別命(応神天皇)が生まれるのである。つまり、応神天皇の時代に弓月君が渡来したのではなく、応神天皇自身が弓月君(融通王)なのである。

 このことを、『日本書紀』は神功皇后の三韓征伐とうまく絡み合わせて、功満王の大和朝廷潜入、及び簒奪を隠蔽することに成功したようである。

 

以上が『日本書紀』と『新選姓氏禄』を照らし合わせて、私が出した結論である。


 但し、『日本書紀』が特に功満王の存在を隠蔽したのは、『日本書紀』が建前とする「万世一系」を貫くためだと思われる。実際、この後、神功皇后と武内宿禰の率いる軍は大和朝廷と戦い、仲哀天皇の遺子である、籠坂王、忍熊王を滅ぼしてしまうのだから、普通に考えたらこの戦いは、大和朝廷簒奪のクーデターであることに気づくはずである。それなのに過去の論者が誰一人として、この話に気付かなかったのは、建前の「万世一系」を健気にも妄信してきたからであろう。

 即ち、この時、大和朝廷は新羅から渡来した秦氏の王に政権を簒奪されてしまうのであり、長年続いてきた日本の天皇の血統が断絶してしまうのである。

 

 このことをもってしても、神功皇后や武内宿禰が元々大和朝廷に属していた人物とは考え難く、神功皇后は秦氏に関連する天の日矛系の人物であり、武内宿禰は渡来人系の神功皇后を擁護した海人族の指導者と考えられるのである。

 

 


 

 

 

 

 


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